第30回 宗教「宗教は生き方」


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辞書や辞典で「宗教」を調べると、たいていは「安心や慰め、心の支え、幸福を得ようとして、神や仏を信仰すること・・・・・。」などと解説されていると思います。まあ、これが一般的な解釈でしょうね。
で、これで宗教の本質ってわかります? 宗教の意味ってわかりますか?
ま、宗教ってこんなものかな、とは思うでしょう。しかし、これでは、宗教の意味を表しているとは思えないんですけどね。

私が思うに、「宗教」というのは、「生き方」でしょう。或いは、「死に方」でもいい。まあ、生き方=死に方でもあるのですから、どちらでも構わないのですが、やはりここは「生き方」としておきましょうか。

世の中には様々な宗教があります。世界三大宗教といえば、仏教・キリスト教・イスラム教です。その他に有名なところでは、日本神道、道教、ヒンドゥー教、ユダヤ教、ラマ教、ブードゥー教なんていうのもありましたね。儒教というのもあるし、シーク教というのもあります。未開の地には、未開の地なりに土着の宗教がありますし、それぞれの宗教もさらに様々な派に分かれています。
さらに、新興宗教、新・新興宗教を入れれば、大変な数に上ります。(白装束軍団なんてのもいましたね。あれも一種の宗教なんでしょう。わけがわかりませんが・・・。)

そりゃ、そうでしょう。宗教とは生き方なんですから。そう考えれば、宗教がいっぱいあっても納得いくでしょ。
というよりも、「生き方」が先にあって、あとから宗教へと発展していくのでしょう。わかりますか?

最初は一人の人間の「生き方」なんですよ。その人固有の考えに基づいた生き方なんですよ。で、その生き方に賛同したり、あこがれたり、真似したいと思ったりした者が集まってきて、初めて宗教になっていくんですよ。
普通の人々とは違った生き方をしている者、違った考え方をしている者に賛同する者や、その人の言うことを信じる人々が集まってきて、一つの集団を作ったとき、その時に宗教となるんですね。
それ以前では、単なる変な人なんですよ。で、誰も賛同者や信じる者が集まらなかったら、単なる「おかしい人」で終わるだけなんです。
たとえば、お釈迦様が説かれた教えを誰も理解しなかったら、誰も信じなかったら、お釈迦様は単なる修行者で終わっていたでしょう。その教えもこの世には残っていなかったことでしょう。これでは、仏教という宗教は生まれなかったことになります。
たとえば、キリスト教でもそうでしょう。だれもキリストについてこなかったら、誰もがキリストを迫害したら、キリスト教という宗教は生まれなかったでしょう。
他の宗教もそうです。その教え、生き方を信じる者がいなかったら宗教にはならないのです。

せすから、宗教とは生き方なんです。決して「安心や慰め、心の支え、幸福を得ようとして、神や仏を信仰すること・・・・・。」などではないのですよ。それは、宗教の意味ではなくて、宗教の目的でしょう。宗教の目的として、「心の安楽や慰めや支え」があるのだし、そのために「幸福を得よう」とするのでしょう。辞書や辞典に説かれるところは、宗教とは?ではなく、宗教の目的なのです。

よく宗教は怪しいもの、人間をダメにするようなもの、麻薬だ、などと言われることがあります。それは、宗教そのものが悪いのではありません。その宗教の目的としているもの、教え、内容、手段が悪いのです。一部のおかしな宗教があるために、宗教全体が怪しいもの、と解釈する方がいますが、それは大きな間違いでしょう。
どんな宗教であれ、もとはその教祖の生き方であったはずです。その教祖の考え方であったはずです。ですから、昔からあった宗教なら、怪しい宗教であることはないはずです。
ところが、実際には昔からある宗教・・・たとえば仏教やキリスト教、イスラム教などでも・・・怪しい宗教団体があることは事実です。
これは、その宗教が悪いのではないのです。その宗教を利用しているものが悪いのです。その宗教を利用して、妙な解釈を加え、妙な儀式を行うようになって、怪しい宗教にしてしまうのです。

たとえば仏教をベースにしている宗教ならば、お釈迦様の教えを中心としなければなりません。ところが、仏教系新興宗教・仏教系新・新興宗教の一部には、とてもそうとは思えない宗教団体があります。なんで、これが仏教系なの?と思える宗教団体があるんですよ。どことはいいませんが。
これは、解釈の仕方が悪いんですよ。仏教が間違っているわけではないのです。仏教を利用しているその団体の仏教に対する解釈が間違っているんですよ。
そうして、本来の仏教とは似ているけれども全く違ったものになってしまうんですね。

仏教の場合、様々な派があります。キリスト教でもそうですね。イスラム教にも派があるようです。これらは、元の教えの解釈の仕方が異なるからでしょう。ですから、どの派が正しくて、どの派が間違っているということはないのでしょう。少なくとも、仏教には宗派で正しい・間違いはありません。
教えそのものには間違いはないのです。
他の宗教でもそうだと思います。元の教えそのものには、間違いはないのでしょう。なにしろ、生き方そのものですから、間違いとか正しいとかはないのですからね。
問題なのは、その教えを解釈する側、利用する側なのです。そちら側の心の問題なのです。その解釈する側の心に悪意があるならば・・・・・。

宗教は扱う側の心の純粋さによって、悪い宗教にもなるし、正しい宗教にもなるのです。欲望にまみれたものが宗教を扱えば、悪い宗教、怪しい宗教になるでしょう。欲のないものが正しく扱えば、決して悪い宗教になるものではありません。

それだけではありません。理解の度合いによっても変わってきます。
たとえば、仏教の場合、宗派の違いだけでなく、お坊さんの考え方によっても違いがあります。同じ宗派でもお坊さん自体の考え方が随分反映されるんですよ。
怪しい坊さんもいれば、儲け主義の坊さんもいるし、ただ威張っているだけの坊さんもいるでしょう。逆に、すごく親切で、生き仏のようなお坊さんもいることでしょう。
これは、宗教そのものとは関係のないところです。宗教者の資質の問題ですからね。宗教がいいとか悪いとかの問題ではないのです。
なのに、資質の悪い宗教者がいると、その宗教が悪いように扱われるんですよ。これって、間違っていると思いませんか?

宗教そのものは、悪いものはないでしょう。どんな宗教であれ、間違った宗教というのはないのです。間違ったり、怪しくなったりするのは、その宗教を扱う側の問題なのです。
宗教とは、その教祖の生き方です。それを信じる信じない、その生き方に賛同するしない、ということが、宗教を信じるかどうかということになるのです。
ですから、その派は、本来の教えを説いているかどうかが問題になってきます。仏教で言えば、お釈迦様の教えが生きている派かどうか・・・ということですね。
この点を注意していれば、怪しい宗教や宗派に嵌ることはないでしょう。

宗教は、生き方です。ですから、たくさんあります。どの生き方に賛同するかはあなたの自由です。私はお釈迦様の生き方に賛同した者なのです。


See You Again  by-nagisa

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