「祖師野丸(そしのまる)」


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後世に名を残している勇壮(ゆうそう:勇ましいこと)な武将には、国を変えるような大きな戦いだけではなく、赴いた地で逸話を残す者もいます。今回紹介する刀剣、「祖師野丸」(そしのまる)の持ち主・源義平(みなもとのよしひら)もそのひとりです。源平が争った平安時代後期、その戦乱の中で生きた、源義平と愛刀・祖師野丸について紐解いていきましょう。



1、源義平とはどんな人物か

1141年(永治元年)に、源義朝(みなもとのよしとも)の長男として生まれた源義平。

のちに鎌倉幕府を開く、源頼朝(みなもとのよりとも)とは異母兄弟の関係にあります。

別名、「悪源太」(あくげんた)や「鎌倉悪源太」(かまくらあくげんた)、「悪源太義平」(あくげんたよしひら)とも呼ばれ、源氏内部の勢力争いの最中、父・源義朝と対立した叔父・源義賢(みなもとのよしかた)を武蔵国大蔵館(むさしこくおおくらやかた:埼玉県比企郡)で討ち取ったことに由来します。

現代の感覚では悪い印象を与えかねませんが、当時は「悪」と言う言葉に「強い」と言う意味もあり、源義平の武勇を評した異名だったのです。



2、平治物語に見る源義平

源義平の活躍が記されている代表的な書物が、「平治の乱」(へいじのらん)をテーマした軍記物語「平治物語」(へいじものがたり)です。

源義平が相模国(神奈川県の大部分)に住む母方の祖父のもとにいた頃、都で騒動があったことを知り、その騒動で官位を剥奪された信西(しんぜい)の子の代わりを据えるための除目(じもく:大臣以外の官を任ずる儀式)に源義平が急いで駆け付けた、というできごとがありました。

藤原信頼(ふじわらののぶより)は大変喜び、「除目に間に合ったとは幸運だ。大国か小国、官職も階級も思うように与えよう。合戦でも大いに働いてくれ」と言いました。

すると源義平は、「では私に軍勢をお与え下さい。そうすれば阿倍野(大阪府大阪市阿倍野区)に向かい、平家の軍勢を待ち伏せて平清盛(たいらのきよもり)を追い込んで捕え、首をはねましょう。そして世が落ち着きましたら、国も官職も進んで頂戴します。まだ功績がないのに、先に恩賞をいただいて何になりましょうか」と進言しました。

しかし藤原信頼は、「阿倍野まで走って馬の足を疲れさせ、何になろうか。平家の軍勢を都へ入れてから、なかで取り囲んで討つのになんの問題があろうか」と言い、意見を退けました。周りの人々も藤原信頼に従いましたが、これが運の尽きとなったのです。

藤原信頼の考えにしたがって、源義平らは平家を都へ迎え入れて戦うものの、源義平らは奮闘の甲斐なく都落ちしますが、再び兵を集めて立て直しを図ります。

しかしその最中、源氏に与していた長田忠致(おさだただむね)のもとへ身を寄せていた父の源義朝が、長田忠致に裏切られ殺害されてしまいました。

源義平は、せめて平家の武将と相討ちになろうと機会を窺いますが、最後は捕らえられ、若くして斬首されてしまったのです。

「悪源太誅せらるる事」のページには、このような逸話が記されています。六条河原に連れてこられた源義平は「私ほどの敵を生かせばどうなるか分からないぞ。早く斬れ」と臆さず、続けてこう言いました。

「この源義平を昼間に河原で斬るとは、平家の者は情けも物も知らないやつだ。藤原信頼という不覚人の言うことを聞いて、恥をかくことになり悔しいばかりだ。阿倍野で待ち受けて、ひとりも残さず討ち取ってやろうと思ったものを」。

さらに、斬首人である難波経房(なにわつねふさ)に向かって「お前は私を斬るほどの男か? 下手に斬ったら食らいつくぞ」と言い放ちます。首を斬られてどうやって食らいつくのかと尋ねると、「雷になって殺してやる」と言ったのでした。

その言葉が現実になったかのように、難波経房は、のちに出家した平清盛のお供として摂津国(せっつのくに:大阪府北中部と兵庫県南東部)の「布引の滝」(ぬのびきのたき:兵庫県神戸市)の見物に行った際、雷に打たれて死んでしまいました。

この話は、平冶物語の「清盛出家の事並びに滝詣(たきもうで)で付けたり悪源太雷電となる事」に記されています。



3、飛騨が舞台の狒々退治

源義平が平治の乱で敗走し、再び挙兵するために潜伏した際、狒々(ひひ:猿の妖怪)から村人を助けた、と言う逸話が岐阜県下呂市金山町に残っています。

かつてその場所にあった祖師野村(そしのむら)には、毎年の村祭りで神に人身御物(ひとみごくう:人間を神への生贄にすること)として若い女性を供える習わしがありました。村に立ち寄った源義平は、村人達から狒々退治の相談を受けます。

そこで源義平が女になりすまして待ち伏せていると、夜、何者かの足音が近付いてきました。源義平がすかさず腰に帯びていた太刀で斬りつけると、数百年は生きたであろう、白く大きな体躯の狒々が山のなかへ逃げていきます。

村の若者を連れてその血の跡を追ったところ、岩屋の洞窟に辿り着き、源義平らはそこで狒々を退治したのでした。厄災から逃れた村人達は、のちに感謝の意を込めて、鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう:神奈川県鎌倉市)から勧請(かんじょう:神仏の分霊を迎え入れること)し、祖師野八幡宮(そしのはちまんぐう)を創立したと言われています。狒々退治で源義平が帯びていた太刀は、その後、村人に寄進されました。

その刀剣は、村の名前にちなみ祖師野丸と命名され、現在でも祖師野八幡宮(そしのはちまんぐう:岐阜県下呂市)に祀られています。

また、狒々が退治された岩屋の場所は、岩屋岩陰遺跡(いわやいわかげいせき)として岐阜県の指定史跡になっています。



4、祖師野丸の姿形と現在

祖師野八幡宮に奉納され、伝えられてきた祖師野丸。刀身は2尺7寸5分(83.3cm)ほどで、鞘は藤巻のうるし仕上げ(藤巻にうるしを塗って仕上げること)です。

祖師野丸は平安時代前期、鉄の産地であった伯耆国(ほうきのくに:鳥取県西部)にいた刀工・安綱(やすつな)の作とされ、現在は岐阜県の指定文化財になっています。

刀身は長年錆びついたままでしたが、2016年(平成28年)に刃物の産地として名高い、岐阜県関市の研ぎ師により、以前の輝きを取り戻しました。

今でも祖師野丸は年に1度、祖師野八幡宮の宝物の虫干し(むしぼし:箱から取出して日光に当て、風を通して湿気やかび、虫の害を防ぐこと)を行なう日に観ることができます。

追われる身でありながらも困っている人々を助けた狒々退治の逸話からは、源義平の義理深い一面が垣間見えます。

祖師野丸が脈々と受け継がれ、奇跡的に現存しているのは、当時の村人の謝意として、大切に保管されてきたからかもしれません。




See You Again  by_nagisa

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