巻二 (24)厚行、死人を家より出すこと
巻二 (24)厚行、死人を家より出すこと
昔、右近将監・下野厚行という人がいた。
彼のいた時代、朱雀院の御代から村上天皇の御代にかけては、
競い馬がたいそう流行していて、
厚行は名騎手として、自他共に認める存在だった。
さて厚行は年をとってからは西京に住んだが、
ある日、お隣さんが亡くなったため、お弔いに出かけ、
故人の息子から臨終の様子などを聞いていると、
「亡くなりました親を、焼き場に送りたいのですが、うちの門は方角が悪いのです。
とはいえ、遺骸を門から出さないわけにも行かないので、
どうしたら良いか、途方にくれているのです」
そんな話を聞いた、厚行は、
「悪い方角から、死者を送り出すのはよろしくない。
たくさんのご子息のためにも、避けるべきことです。
というわけで、お宅と、わしの家との垣根を破って、そこから出したらどうですかな。
故人は情け深い御人で、生前、いろいろ便宜を図っていただきましたゆえ、
こういう時にその恩の一端でもお返しせねば、機会がありません」
「え、いやいやいや。日々平穏無事にお過ごしの、お宅から出すわけには参りませんて。
忌むべき方角ではありますが、我が宅の門から出しますので」
「そりゃ間違ったことですよ。とにかく、この厚行の家からお出しなさい」
そう言い置いて、厚行は帰って行った。
で、帰宅すると、厚行は自分の子供へ向って、
「隣のお宅の御主人が亡くなった。お世話になっていたので出かけたところ、
息子さんが、『方角は悪いが、門が一つしか無いからそこから出そう』と言っていた。
可愛そうに思ったゆえ『垣根を一部取り壊し、我が家の門から出せば良い』と伝えてきたぞ」
そう伝えたところ、妻子たちは驚き、ざわめいて、
「何て馬鹿なことをなさるんですか。
穀物断ちをするようなありがたい坊さんだって、そこまではしませんよ。
いくら自分がこだわらないからといって、自宅の門から、隣の死人を出す奴なんて、
どんなに考えてみても、ありえませんよ!」
などと盛んに不満を言い合った。
だが、これを聞いた厚行は、
「馬鹿なことを申すでない。ただわしの言ったとおりにすれば良いのだ。
物忌みなどにこだわり、神妙に戒律を守りまくる奴は結局、命を短くし、出世しない。
逆に物忌みをせずに過ごす者は命も長く、子孫も繁栄する。
ひたすら物忌みや戒律ばかりを気に病む奴は、人とは言わぬ。
受けた恩を思い知り、自分自身を忘れるような者こそ人というのだ。
天道も、そちらをこそ助けるであろう。くだらないことを気に病むものではないぞ」
と、下人たちを呼んで、隣家との境の垣根をすぐさま壊させて、
そこから死骸を送り出させたという。
やがてこの出来事が人に知られて、厚行のことを、上流貴族達も褒めそやしたという。
その後、厚行は90年ほども生を全うし、その子孫に至るまで長寿を保った。
下野氏の子孫は、舎人の中でも名高い存在になったという。
原文
昔、右近将監下野厚行といふ者ありけり。競馬によく乗りけり。帝王(みかど)より始め奉りて、おぼえ殊にすぐれたり。朱雀院御時より村上帝の御時などは、盛りにいみじき舎人にて、人も許し思ひけり。年高くなりて西京に住みけり。
隣なる人にはかに死にけるに、この厚行、弔ひに行きて、その子にあひて、別れの間の事ども弔ひけるに、「この死にたる親を出ださんに門悪しき方に向へ り。さればとて、さてあるべきにあらず。門よりこそ出すべき事にてあれ」といふを聞きて、厚行がいふやう、「悪しき方より出さん事、殊に然るべからず。か つはあまたの御子たちのため、殊に忌まはしかるべし。厚行が隔ての垣を破りて、それより出し奉らん。かつは生き給ひたりし時、事にふれて情のみありし人な り。かかる折だにもその恩を報じ申さずば、何をもてか報ひ申さん」といへば、子どものいふやう、「無為なる人の家より出さん事あるべきにあらず。忌の方な りとも我が門より出さめ」といへども、「僻事なし給ひそ。ただ厚行が門より出し奉らん」といひて帰りぬ。
吾が子どもにいふやう、「隣の主の死にたるいとほしければ、弔ひに行きたりつるに、あの子どものいふやう、『忌の方なれども門は一つなれば、これよりこそ 出さめ』といひつれば、いとほしく思ひて、『中の垣を破りて、我が門より出し給へ』といひつる」といふに、妻子ども聞きて、「不思議の事し給ふ親かな。い みじき穀断ちの聖なりとも、かかる事する人やはあるべき。身思はぬといひながら、我が門より隣の死人出す人やある。返す返すもあるまじき事なり」とみな言 ひ合へり。厚行、「僻事な言ひ合ひそ。ただ厚行がせんやうに任せてみ給へ。物忌し、くすしく忌むやつは、命も短く、はかばかしき事なし。ただ物忌まぬは命 も長く、子孫も栄ゆ。いたく物忌み、くすしきは人といはず。恩を思ひ知り、身を忘るるをこそは人とはいへ。天道もこれをぞ恵み給ふらん。よしなき事なわび しそ」とて、下人ども呼びて中の檜垣(ひがき)をただこぼちにこぼちて、それよりぞ出させける。
さてその事世に聞えて、殿ばらもあさみほめ給ひけり。さてその後、九十ばかりまで保ちてぞ死ける。それが子どもにいたるまで、みな命長くて、下野氏の子孫は舎人の中にもおぼえあるとぞ。
(渚の独り言)
ええ話です。
この頃から次第に、物忌みなどの、平安時代の風習が廃れていったのだなあとちょっと感動しました。
この頃には、それほど物忌みの風習が頑固じゃなかったのかもしれません。
下野厚行:
誰? 検索しても詳しいことは不明です。
ただ、宇治拾遺物語のあとの方で、この人の子孫が登場するみたいです。
朱雀天皇から村上天皇の御代:
時代でいうと、平将門の乱、藤原純友の乱の前後です。
そのころにくらべ馬が流行ったのは、二つの大乱の影響かもしれません。
教科書年表的には、村上天皇の次、冷泉天皇のころから「摂関政治」の時代に入ります。
……てことは、下野さんの頃から、摂関時代、物忌み風習も絶好調になるじゃない。
下野さんは、馬が得意だし、武家に近いのかも(下野というくらいですから、板東のひとかも)。
貴族の間で物忌み風習がすたれるのは、平安末期ですね。
→巻五 (72)以長、物忌の事
See You Again by-nagisa
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