巻三 (50)平貞文、本院侍従の事(後)


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 そうして、とうとう、侍従がやって来た。
「こんな雨の中、よくお越しになれましたね」
 と言うので、平中、
「これくらいで来られないのは、思いが足りないのですよ」
 などと言い交わし、やがて平中は側へ寄ることができた。

 髪を手探りすると氷を押し当てたように冷たく、
 やわらかな感じが喜ばしくてならず、
 その後も何やかやと世間話など物語りして、
 もう今夜こそ間違いない――と見極めたところで、侍従が、
「そういえば、向うの戸を閉めてくるのを忘れてしまいました。
 明日の朝、『誰か戸を開け放って外に出た者がいる』
 などと言われるなど煩わしいことですので、閉めて参りましょう。すぐ戻ります」
 そう言われて、平中もありそうなことだと思い、
 また、これほど打ち解けたのだからと、心やすく承知すると、
 本院侍従は上着を残したまま、立ち去った。

 そのうち、本当に戸を閉める音が聞こえたので、
「もうここへ戻ってくるだろう」
 と待っていると、本院侍従は音もたてないようにして奥へ入ってしまったのである。

 これにはさすがの平中も、どうにも心細く、情けなく、
 気も心も消え失せたようになって、
 こうなれば奥へ這い入ってやろうかとも思ったがそんなこともできず、
 やるせない悔しさを抱えても、むなしく、
 泣く泣く、明け方、帰って行った。

 そうして家に戻り、思い明かして、やるせない心境を書き綴って送ったが、
「どうしてやるせないお心になってしまわれたのでしょう。
 昨晩は、お部屋へ戻ろうと思ったところ、奥へ呼ばれてしまったのです。
 それではまたいずれの日に」
 などと返事が来るだけで、過ぎてしまった。

 やがて平中は、
「もはやあの人へ親しくお目にかかることもできまい。
 今はただ、あの人の悪く、疎ましく思われるような部分を見て、
 私の方で思いを挫くまでのことだ。これほどしなくてはどうしようもない」
 と思い、従者を呼んで、
「あの人の、ひすましの皮籠(かわご)を持って来い。
 下のものを落す箱だ――おまるを奪い取って、わしに見せるのだ」
 と命じた。

 それで従者は数日、本院侍従のもとで隙を窺い、
 係の者が逃げるのを追いかけ、とうとう皮籠を奪い取り、逃げてきた。

 平中は喜び、物陰でこっそり開けて見たところ、
 下の物と思しきものが、香の焚かれた中に、三枚も重ねた薄絹に包んである。
 ほかに無いほど香しく、絹を解き、開いてみればその香ばしさは喩えようもないほど。
 よくよく見れば、沈香、丁字といった濃厚なお香が煎じて入れてあるから、
 その香ばしさは想像できるであろうか。

 これを見るに、平中はますます思いが募って、
「忌まわしいように排泄してあれば、見飽きて、心も慰められたであろうが、
 これはどうしたことだ。
 ここまでの心がけをする人もあるのか。並の人ではありえない仕儀だ」
 と、もはや死ぬほどに思い焦がれたが、どうしようもない。

「もはや一目会おうと思うことさえもできぬ」
 と、ここまでした後も、いよいよ、惚け惚けしく思い込んだが、
 とうとう会わずに過ごしたのである。
「我がことながら、あの人のために、世に恥ずかしくねたましく思うようになった」
 と、平中、ひそかに人に語ったという。




原文
平貞文、本院侍従事(つづき)

則ちおりたり。「かかる雨にはいかに」などいへば、「これにさはらんは、むげに浅き事にこそ」など言い交して、近く寄りて髪を探れば、氷をのしかけたらんやうに冷やかにて、あたきめでたき事限りなし。なにやかやと、えもいはぬ事ども言ひ交して、疑ひなく思ふに、「あはれ遣戸をあけながら、忘れて来にける。つとめて、『誰かあけながらは出でにけるぞ』など、煩はしき事になりなんず。立てて帰らん。程もあるまじ」といへば、さる事と思ひて、かばかりうち解けにたれば心やすくて、衣をとどめて参らせぬ。まことに遣戸たつる音して、「こなたへ来らん」と待つ程に、音もせで奥ざまへ入りぬ。それに心もとなくあさましく、現心も失せ果てて、這ひも入りぬべけれど、すべき方もなくて、やりつる悔しさを思へど、かひなければ、泣く泣く暁近く出でぬ。家に行きて思ひ明かして、すかし置きつる心憂さ書き続けてやりたれど、「何しにかすかさん。帰らんとせしに召ししかば、後にも」などいひて過しつ。
「大方目近き事はあるまじきなめり。今はさはこの人のわろく疎ましからん事を見て思ひ疎まばや。かくのみ心づくしに思はでありなん」と思ひて、随身を呼びて、「その人の樋すましの皮籠持ていかん、奪ひ取りて我に見せよ」といひければ、日比添ひて窺ひて、からうじて逃げたるを追ひて奪ひ取りて、主に取らせつ。平中悦びて、かくれに持て行きて見れば見れば、香なる薄物の、三重がさねなるに包みたり。香ばしき事類なし。引き解きてあくるに、香ばしさたとへん方なし。見れば、沈、丁子を濃く煎じて入れたり。さるままに香ばしさ推し量るべし。見るにいとあさまし。「ゆゆしげにし置きたらば、それに見飽きて心もや慰むとこそ思ひつれ。こはいかなる事ぞ。かく心ある人やはある。ただ人とも覚えぬ有様ども」と、いとど死ぬばかり思へど、かひなし。「我が見んとしもやは思ふべきに」と、かかる心ばせを見て後は、いよいよほけほけしく思ひけれども、遂に逢はでやみにけり。
「我が身ながらも、かれに世に恥がましく、妬く覚えし」と、平中みそかに人に忍びて語りけるとぞ。



(渚の独り言)

ビバ50話! 有名なヘンタイ・うんこ話ですね。
いくら何でも、毎度毎度、うんこをお香と薄絹で処理するわけもないので、平中側の企みを察知した侍従が、そんなふうにさせた――という解説がくっつきます(でもどこにもそんなことは書いてないです)。
ちなみに同じ話が出てくる今昔物語の方では、平中、箱の中味を口に入れてみると書いてあるらしいですよ。

樋すましの皮籠:
ひすましのかわご。要するに、おまる。
「樋すまし」というのは、「便所の始末」「便所清掃人」というような意味です。
樋(ひ。←ここにうんこをして水で流す)の掃除。高貴な人のもとには、「ひすましわらわ」という子供がいて、掃除を担当していた模様。そりゃ平安貴族だって、うんこしますわね。



 

See You Again  by_nagisa

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