巻四 (54)佐渡国に金ある事


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能登国には、鉄の材料にする素鉄(すがね)というものを集め、
 能登守に献上する役目の者が、六十名いた。

 さて実房という守の時、砂鉄取り六十人の長が、
「佐渡国こそ、黄金の花が咲いたような場所なんだろう」
 と、人に話しているのを、実房、伝え聞いて、
 その者を呼び、褒美の品を与えるなどして詳しく聞くと、
「佐渡国には、本当に黄金があるのです。実際にこの目で見ております」
 と言うので、
「ならば行って、取って参れ」
「ご命令くだされば、行って参ります」
「ならば舟を用意させよう」
「余人はいりません。ただ小舟一つと食糧を少々与えてくださいませ。取って参ります」
 そう言うので、言葉どおり誰にも知らせず、
 舟と食糧少々を与えると、男は佐渡へと渡っていった。

 そうして、一ヶ月ほどして、男のことを忘れたころに、ふと戻ってきた。
 実房に目配せするので、心得て、取次を通さず、自ら出て面会すると、
 袖移しに、黒ずんだ布きれに包まれた物を差し出した。
 と、実房は重そうにこれを懐へ入れて、部屋へ引き上げる。

 その後、この黄金を持って来た男はどこへともなく消え失せてしまったという。
 あちこち尋ねさせたが、行方は知れず、あきらめてしまった。
 何を思っていなくなったのか、理由は不明。
 黄金のありかを聞き出されるかと疑ったのかもしれない。

 ちなみにその黄金は、八千両ほどもあったと伝わっている。
 そういうわけで、
 佐渡国には黄金があると、能登国の人々は語り合ったとのことである。




原文
左渡国に金ある事

能登国には、鉄(くろがね)といふ物の、素鉄(すがね)といふ程なるを取りて、守(かみ)に取らする者、六十人ぞあなる。実房といふ守の任に、鉄取六十人が長なりける者の、「佐渡国にこそ、金(こがね)の花咲きたる所はありしか」と人にいひけるを、守伝へ聞きて、その男を守呼び取りて、物取らせなどして、すかし問ひければ、「佐渡国には、まことに金の侍るなり。候ひし所を見置きて侍るなり」といへば、「さらば行きて、取りて来なんや」といへば、「遣はさばまかり候はん」といふ。「さらば舟を出し立てん」といふに、「人をば賜り候はじ。ただ小舟一つと食物少しとを賜り候ひて、まかりいたりて、もしやと取りて参らせん」といへば、ただこれがいふに任せて、人にも知らせず、小舟一つと食ふべき物少しとを取らせたりければ、それを持て佐渡国へ渡りにけり。
一月ばかりありて、うち忘れたる程に、この男、ふと来て、守に目を見合せたりければ、守心得て、人伝には取らで、みづから出であひたりければ、袖うつしに、黒ばみたるさいでに包みたる物を取らせたりければ、守重げに引きさげて、懐にひき入れて、帰り入りにけり。その後、その金取の男はいづちともなく失せにけり、万に尋ねけれども、行方も知らず、やみにけり。いかに思ひて失せたりといふ事を知らず。金のある所を問ひ尋ねやすると思ひけるにやとぞ、疑ひける。その金八千両ばかりありけるとぞ、語り伝へたる。かかれば佐渡国には金ありける由と、能登国の者ども語りけるとぞ。



(渚の独り言)

何というか、ぱっとしない話ですね。。。

素鉄(すがね):
生鉄=よく鍛えていない鉄――と出ましたが、これを「取る」とあるので、何となく、鉄の材料すなわち砂鉄のことだと思いました。

実房という能登守:
藤原実房。ふじわらのさねふさ。
でも「藤原実房」で検索すると出てくる、新古今和歌集の入道左大臣(1147-1225)とは別人です。
寛弘~長歴年間(1010年-39年)あたりに、能登守をやっていた人、ということしか分りません。
時代的には、紫式部とか、清少納言が元気だった頃、藤原道長が摂政になったような頃です。

さいで:
裂帛。裂いた布の切れ端、ということなので、布きれ。





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