「宮本武蔵-最強の剣豪・剣士」

剣豪と聞くと真っ先に名前が挙がる「二天一流」(にてんいちりゅう)の開祖「宮本武蔵」(みやもとむさし)。日本人であれば、知らない人はいない剣豪です。生涯無敗を誇った最強の剣士だけでなく、その苛烈な生き様は死後も歌舞伎や浄瑠璃、小説などにたびたび描かれ、ヒーロー的人気を博しました。また、著書「五輪書」(ごりんのしょ)は海外でも広く読まれ、剣道愛好家はもちろん思想書としても著名。国際的な知名度を持つ剣豪は、あとにも先にも宮本武蔵ただひとりです。しかし、広く名前が知られている分、伝説が一人歩きしているのも事実。特に「佐々木小次郎」(ささきこじろう)との決闘などはその好例です。宮本武藏は、いったいどのような剣豪だったのでしょう。生涯を紐解き、日本一有名な剣豪の実像に迫ります。
1、生涯負けなし!60余の他流試合に圧勝
父との確執で家を飛び出した野生児
「宮本武蔵」(みやもとむさし)は1584年(天正12年)に播磨国(現在の兵庫県南西部)で生まれました。
父については諸説ありますが、幼い頃に剣豪「新免無二」(しんめんむに)の養子になったと言われています。13歳で本格的な剣術修行を開始しますが、新免無二とはことあるごとに衝突する関係でした。
一説によれば、あるとき楊枝を削っていた新免無二に向かって剣技をあざ笑い、一悶着を起こしています。このとき新免無二は激怒して小刀を投げ付け、それを悠々とかわす宮本武蔵。かわされるとさらに怒り狂い、別の小刀を投げ付ける始末でした。度を超した親子ゲンカをたびたび起こしていたのです。
やがて実家を飛び出すと、武者修行をしながら剣名を挙げ、大名家の客分として各地を転々。宮本武蔵の戦歴は詳しく分かっていませんが、「五輪書」(ごりんのしょ)によれば、13~29歳頃までの間に60余の決闘を行い、すべてに勝利したと書かれています。強い者には手当たり次第挑む、野生児のような男だったのです。
有名な合戦にもたびたび従軍!
剣豪との勝負のみがクローズアップされがちな宮本武蔵ですが、合戦にもたびたび従軍しています。まず、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」の際、豊前国(現在の福岡県東部)の「黒田如水」(くろだじょすい:別名[黒田官兵衛])に従い、九州で戦ったとされています。
また、1615年(慶長20年)には、徳川家譜代「水野勝成」(みずのかつなり)の配下として「大坂夏の陣」に従軍。さらに1638年(寛永15年)には「島原の乱」鎮定のため、小倉藩兵に加わり「原城」(長崎県南島原市)を攻めています。ただし、それぞれの戦いにおける宮本武蔵の手柄は分かっていません。
実は、剣の腕前を見た人はいない!?
剣術の腕を見込まれ、1640年(寛永17年)に肥後国(現在の熊本県)を治める細川家の客分となります。
このとき、かの有名な五輪書を起筆。完成後これを弟子に譲り、64歳で没しました。
しかし、五輪書には60余回無敗である旨は書かれているのですが、それ以外は謎。実は、後世に伝えられている決闘の多くは、事実かどうか分かっていないのです。
いずれも昭和初期に大ヒットした「吉川英治」(よしかわえいじ)の名著「宮本武蔵」の影響で、京都の「吉岡清十郎」(よしおかせいじゅうろう)をはじめとする吉岡一門との戦いや、「宝蔵院胤舜」(ほうぞういんいんしゅん)との激闘などが格好良く描かれ、現在の宮本武蔵像を作り上げました。
ところが吉川英治の著作は、宮本武蔵の死後110年を経て記された「武公伝」(ぶこうでん)や、同書をもとに記された「二天記」(にてんき)を史料としているため、事実とは言いがたい内容です。いくつかは実際に行われた決闘なのかどうかすら不明。そんななかで唯一、詳細が分かっているのが、「岩流」(がんりゅう)という流派を開いた「佐々木小次郎」(ささきこじろう)との戦いなのです。
2、イメージと違う!?
本当の「巌流島の決闘」とは
最も信憑性が高い「小倉碑文」
(こくらひぶん)
宮本武藏の素顔を知る上での良質な史料は、手向山(たむけやま:福岡県北九州市)の山頂にある「小倉碑文」(こくらひぶん)です。
宮本武蔵の養子「宮本伊織」(みやもといおり)が、養父没後9年を経て建てた顕彰碑であり、漢文1,100余文字からなっています。複数言及されている宮本武蔵の決闘中、最も具体的なのは佐々木小次郎との一戦です。
決闘を申込んだのは佐々木小次郎でした。「真剣で戦おう」と提案したものの、宮本武蔵は「お主は真剣を用いてその妙を尽すのが良かろう。我は木剣を用いて妙を尽す」と応じました。
決闘場所は、長門国(現在の山口県北西部)と豊前国(現在の福岡県東部)の境に浮かぶ船島(ふなしま:山口県下関市)。両雄は約束の刻限に同時に姿を現しました。「巌流島の戦い」(がんりゅうじまのたたかい)の名場面として、宮本武蔵が遅れて登場し、「小次郎、敗れたり」と豪語するシーンがありますが、これはフィクションです。
佐々木小次郎は、3尺(95~105cm)余りの日本刀で斬りかかりますが、武藏は木剣で応じ、一撃のもとに倒しました。まさに電光石火の早業。この決闘以後、同島は「巌流島」と呼ばれるようになるのです。
実は私闘にすぎなかった巌流島の決闘
江戸時代に書かれた二天記や吉川英治の名著・宮本武蔵では、宮本武藏が小倉藩主「細川忠興」(ほそかわただおき)の指南役・佐々木小次郎との勝負を望み、藩主の許可を得て小倉藩検視役立ち合いのもと試合を行ったことになっています。
しかし、当時の船島は小倉藩の所領ではなく、他藩の役人が立ち入ることは不可能。つまり巌流島の決闘は、宮本武蔵と佐々木小次郎の私闘にすぎませんでした。他人の土地に無断で侵入して果たし合いを行ったというのが実情なのです。
3、宮本武蔵が用いていた2振の愛刀
最も有名な愛刀「無銘金重」
(むめいかねしげ)
京都の吉岡一門との戦いで使用されたと伝わる、南北朝時代に作刀された「無銘金重」(むめいかねしげ)です。刀鍛冶のメッカ「関鍛冶」(現在の岐阜県関市)の開祖とされる「金重」(きんじゅう)が打った物ですが、銘(めい)が刻まれていないため頭に「無銘」(むめい)と冠しています。
当時の刀としては反り(そり)が浅く、1.7cm程度しか反りがありません。これは、斬り技よりも突き技に適している構造です。また、反りは深ければ深いほど重心位置が手前に来て刀が軽く感じられます。反りの浅い無銘金重を愛刀にしていることを鑑みると、宮本武蔵は筋力に優れた剣豪だったと言えるのです。
愛刀「和泉守藤原兼重」
(いずみのかみふじわらのかねしげ)
宮本武蔵自身が、拵(こしらえ:刀装のこと)を手がけたと言われる愛刀が
「和泉守藤原兼重」
(いずみのかみふじわらのかねしげ)
刃の部分は武蔵国(現在の埼玉県、東京都23区、神奈川県の一部)の刀工「兼重」(かねしげ)が手がけ、柄巻(つかまき)には牛馬革を重ね巻き。鞘(さや)は、栗色金虫喰朱うるみ塗りによるものです。
宮本武蔵がこしらえた拵を「武蔵拵」(むさしこしらえ)と呼び、剣術修行で得た経験から実用的で使いやすい刀装具を入念に調整していました。この1振から、宮本武蔵が細部の装飾にまでこだわる人物だったことが分かります。
See You Again by_nagisa
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