巻四 (59)三川の入道、遁世の事(前)


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 三河入道が、まだ俗人だった頃のこと。
 三河守に任じられた入道は、もとの妻を追い出し、
 若くきれいな思い女を新たな妻として迎え、三河へ引き連れて行った。

 だが三河へ着くなり、その新しい妻は長く患いついてしまい、
 美しかった容姿も次第に衰え、やがて亡くなってしまった。

 入道は哀しさの余り、弔うこともせず、
 夜も昼も側から離れず、語りかけ、口を吸い続けるうちに、
 あさましい臭気が口より立ち上るようになって、
 そこでようやく疎ましさを覚え、泣く泣く葬送に出すことになった。

 そうして、入道は、この世は憂きものだと思うに至った。

 さらに、折から、三河の国で風祭と呼ばれる祭が催され、
 生贄として、猪を生きながら卸して行くのを見たため、
 いよいよ、この地より立ち去る決意をする。

 そこへ、雉子を生きたまま捕らえたという人が出てきて、
「いざ、この雉子を活け作りにして食いましょうか。
 それでできる限り、味わいの良い感じに試みようと思いますが、どうでしょう」
 などと言っている。

 これに、上役の気に入ろうとする郎党の一人が、何にも知らないくせに、
「これは良いものが持ち込まれました。
 生きながら卸せば、かなり味わいを増すようできますね」
 などと囃し立てている。

 さすがに、もののあわれを知る者は、
 あさましい物言いだと内心では思っている様子だが、
 生きながらの作業が始るらしい。

【つづき】


原文
三川の入道、遁世の事

参川入道、いまだ俗にて有ける折、もとの妻をば去りつゝ、わかくかたちよき女に思つきて、それを妻にて、三川へ率てくだりける程に、その女、久しくわづらひて、よかりけるかたちもおとろへて、うせにけるを、かなしさのあまりに、とかくもせで、よるもひるも、かたらひふして、口を吸ひたりけるに、あさましき香の、口より出きたりけるにぞ、うとむ心いできて、なくなく葬りてける。
それより、世うき物にこそありけれと、思ひなりけるに、三河の國に風祭といふことをしけるに、いけにへといふことに、猪を生けながらおろしけるをみて、此國退きな んと思ふ心つきてけり。雉子を生ながらとらへて、人のいできたりけるを、「いざ、この雉子、生けながらつくりて食はん。いますこし、あぢはひやよきとこゝろみん」といひければ、いかでか心にいらんと思たる朗等の、物もおぼえぬが、「いみじく侍なん。いかでか、あぢはひまさらぬやうはあらん」など、はやしいひける。すこしものの心しりたるものは、あさましきことをもいふなど思ける。



(渚の独り言)

後半の描写は残酷です。。。つづきます。

三河入道:
寂照。俗名は大江定基。
歌も詠んだようで、「続詞歌和歌集」「玄々和歌集」といったところに採用されているようです。
長保5年(1003年)宋に渡海、やがて円通大師の号を賜る、日本に帰国する事がないまま杭州で没――らしいです。

新妻:
宇治拾遺に書いてあるとおり、もとの妻を追い出して都から連れて行ったという説と、国司は妻を京都へ残すのが原則だから新妻は現地、三河赤坂の宮路弥太郎長福さんの娘、力寿(珠・りきじゅ)だという物語も出てきました。
その話によると――定基さん、この力寿の死後に、文殊菩薩のお告げに従って、「力寿の舌をきり、以て陀羅尼山の峯に登り、その舌を埋め 其の所に楼をつくり文殊の像を安置し且つ一寺を建つ、而して楼を文殊楼と称し、寺を舌根寺と名づけ、峯を力寿山と号す」(力寿山舌根寺・宝暦年間に廃寺、 今は豊川市の財賀寺に本尊など移転)という伝説があるようです。
ちなみに力寿さんの遺骸は父長福が引き取って、赤坂の長福寺に埋葬。今も寺の裏手には、女郎石といわれる自然石が 立っているそうです



See You Again  by-nagisa

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