「佐々木小次郎-最強の剣豪・剣士」

「宮本武蔵」(みやもとむさし)最大のライバルとして名高い「佐々木小次郎」(ささきこじろう)。独自の流派「岩流」(がんりゅう)を編み出し、物干し竿とも呼ばれる長刀を操った剣豪として知られていますが、その生涯は謎だらけ。並みいる剣豪の中でも、ミステリアスさにかけてはトップクラスと言えるでしょう。しかし、諸説をたどれば「伊藤一刀斎」(いとういっとうさい)や「鐘捲自斎」(かねまきじさい)などにルーツを見ることができ、掘れば掘るほど魅力が増す剣豪でもあります。小説や映画、マンガなどの創作物でもたびたび取り上げられ、現在でも高い人気を博している佐々木小次郎。そのベールに包まれた生涯を逸話や愛刀とともにご紹介します。
1、出生地も生年も謎!正体不明の剣士
師匠は誰!?名だたる剣豪が師匠の名に挙げられる
「佐々木小次郎」(ささきこじろう)の出自には諸説あり、いつどこで生まれたのか明確には分かっていません。名前すら史料によってばら付きがあります。
ただし、かの有名な「巌流島の決闘」における有力史料であり、「宮本武蔵」(みやもとむさし)の養子「宮本伊織」(みやもといおり)が建てた「小倉碑文」(こくらひぶん)に存在が明記されているため、実在の人物だったことは確かです。
出生地の有力な説をひとつ挙げると、豊前国(現在の福岡県東部)の田川郡副田庄(福岡県田川郡添田町)とされています。ここに佐々木氏という豪族がおり、その居城が「岩石城」(がんじゃくじょう:福岡県田川郡添田町)でした。のちに開祖となる「岩流」(がんりゅう)は、この「岩」の文字から取ったと言われているのです。
剣術の師匠についても確かなことは分かっておらず、様々な剣豪の名が伝承されています。例えば、一刀流(いっとうりゅう)の元祖「伊藤一刀斎」(いとういっとうさい)に育てられた説、その伊藤一刀斎の師匠にあたる「鐘捲自斎」(かねまきじさい)説、さらには、鐘捲自斎の師匠で盲目の剣士として名高い「富田勢源」(とだせいげん)説など。彼らはいずれも近世剣術の三大源流のひとつ「中条流」(ちゅうじょうりゅう:別名は富田流)の系譜にあたる人物。そのため佐々木小次郎も、中条流を土台として剣技を磨いたという見方が一般的です。
佐々木小次郎が開いた「岩流」とは?
佐々木小次郎が修めたと考えられている中条流は、小太刀(こだち)の扱いを得意とする流派でした。しかし、佐々木小次郎自身はのちに、物干し竿と呼ばれる長刀を愛刀としています。つまり佐々木小次郎が開いた岩流とは、「長刀を小太刀同様に操っていた」流儀と考えられるのです。
実際、佐々木小次郎の秘剣として名高い「燕返し」は、中条流に伝わる剣技「虎切」(とらぎり)からインスピレーションを受けたとされています。まず、刀を相手から垂直に振り下ろし、あえて自分の頭部に隙を作って相手をおびき寄せてから、素早く刀を振り上げて股から顎までを斬るという奥義です。佐々木小次郎はこの技で、飛んでいる燕を斬ったとされています。この神速ぶりこそが岩流最大の特徴なのです。
2、日本一有名な果たし合い!
「巌流島の決闘」へ
岩流を修め、剣術指南役に
佐々木小次郎が秘剣・燕返しを編み出し、岩流を開いた地は、越前国(現在の福井県北東部)の一乗滝(福井県福井市)だったと言われています。
現在、この地には佐々木小次郎像を設置。観光名所としても親しまれています。
自らの剣技を極めた佐々木小次郎は、そののち九州の小倉藩を治める「細川忠興」(ほそかわただおき)に認められて剣術指南役に抜擢。城下に剣術道場を開きました。
このとき、すでに一角の兵法家としての立場を確立していたということになりますが、1612年(慶長17年)にすべてが一変します。ライバル・宮本武蔵との巌流島の決闘に敗れ、命を落とすのです。
佐々木小次郎を殺したのは宮本武蔵ではなかった!?
小倉碑文によると、決闘は予定時刻通りに行われました。小説や映画などでは、宮本武蔵がわざと遅刻して佐々木小次郎の平常心を奪うシーンが描かれますが、これはフィクション。
両者は同時に相対し、佐々木小次郎は3尺(95~105cm)の白刃、宮本武蔵は木刀で対峙。勝負は一撃で決着が付き、佐々木小次郎が無念の最期を遂げるのです。
しかし、細川氏の家老「沼田延元」(ぬまたのぶもと)の家人が記した「沼田家記」によれば、両雄の対決が決して一筋縄ではいかなかった側面が垣間見えます。
まず、宮本武蔵は1対1で船島(ふなしま:現在の山口県下関市)を訪れるという約束を反故にし、弟子4人と上陸したと言うのです。決闘こそ1対1で行われ、確かに宮本武蔵が勝利したものの、倒れていた佐々木小次郎はその場で蘇生。すると、宮本武蔵の弟子達がトドメを刺すため駆け寄り、佐々木小次郎を撲殺してしまったのです。そのあと、宮本武蔵は佐々木小次郎一派の報復を恐れて「門司城」(もじじょう:福岡県北九州市)に避難。これを沼田延元が保護して逃がしたと書かれています。
事実かどうかは諸説ありますが、もし沼田家記の通りだとすれば、現在広く認知されているヒーロー化された宮本武蔵像はあり得ず、佐々木小次郎の印象も異なっていたかもしれません。
3、佐々木小次郎の子孫と愛刀伝説
子孫の存在は分かっていない
佐々木小次郎の子孫の有無についてはいっさい史料がなく、岩流は1代で潰えたと考えられています。そもそも妻がいたのかどうかですら不明です。
しかし岩流の名は、宮本武蔵と対決した島名に受け継がれました。巌流島の当時の島名は船島。佐々木小次郎がこの地で敗れたことで、巌流島と呼ばれるようになったのです。この一事を取っても、佐々木小次郎が人々から畏敬の念を集めていたことが分かります。あるいは、佐々木小次郎に後継ぎがいなかったからこそ、当時の人々が島名に託したのかもしれません。
物干し竿は伝承にすぎない!?
小倉碑文によれば、佐々木小次郎の得物は「3尺の白刃」としか記されておらず、それがどんな刀だったのかは不明です。今日、佐々木小次郎の愛刀が「備前長船長光」(ひぜんおさふねながみつ)だと言われている背景には、「吉川英治」(よしかわえいじ)の名著「宮本武蔵」の土台となった史料「二天記」(にてんき)の影響があります。ここでは3尺の備前長船長光が物干し竿という異称で登場しているのです。
なお、「長光」(ながみつ)は名工揃いの長船派にあって、特に優秀な刀匠。数々の作例を残していますが、最も有名なのは国宝「太刀 銘 長光」(たち めい ながみつ)と「名物大般若長光」(めいぶつだいはんにゃながみつ)です。いずれも刀剣史を代表する傑作とされ、現在は東京国立博物館(東京都台東区)に収蔵されています。
See You Again by_nagisa
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