「千葉周作-最強の剣豪・剣士」


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江戸時代後期に現れた剣術界の巨星「千葉周作」(ちばしゅうさく)。わずか1代で自ら創始した「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)を国内屈指の剣術流派に押し上げ、門下の育成に無類の手腕を発揮したことで知られる剣豪です。その剣技は「坂本龍馬」をはじめ、幕末期に活躍した数多くの志士に受け継がれました。しかし、千葉周作がどのように独自の剣境にたどり着いたのかは謎。分かっているのはのちの指導法、つまり極限まで合理性を突き詰めた鍛錬方法にこそ、剣技のルーツが隠されているということです。千葉周作はいかにして剣術界の頂点に君臨したのでしょう。その生涯をたどりながら、強さの秘密と北辰一刀流の真髄について、紐解いていきます。



1、没落一家から生まれた天才剣士

父の眼に狂いなし!英才教育で才能が開花

「千葉周作」(ちばしゅうさく)は、1793年(寛政5年)あるいは、1794年(寛政6年)に「千葉忠左衛門」(ちばちゅうざえもん)の次男として、陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県)の気仙沼(けせんぬま:現在の宮城県気仙沼市本郷)で生まれました。

もともと関東有数の名門・千葉氏の流れを汲む家系でしたが、江戸時代に没落。父である千葉忠左衛門は、自らが受け継ぐ「北辰夢想流」(ほくしんむそうりゅう)で家名を再興しようと各地を放浪していましたが望みは叶わず、生活は非常に苦しい状況でした。

ところが千葉周作が5歳の頃、父の千葉忠左衛門は幼い我が子に天性の剣才を見出します。北辰夢想流の創始者「千葉吉之丞」(ちばきちのじょう)がいる栗原郡荒谷村(現在の宮城県大崎市)へ移住し、剣術の英才教育を開始したのです。

ここでメキメキと剣技を上達させた千葉周作は、やがて師匠を圧倒。15歳の頃にはさらなる飛躍を求めて下総国(現在の千葉県北部・茨城県南西部)の松戸へ上り、小野派一刀流中西派の剣豪「浅利義信」(あさりよしのぶ)の門下になりました。すると再び類まれな才能を見せ付け、門下最高の実力者に成長。師匠の娘を娶るかたちで道場主の座を射止めたのです。

合理性を徹底追及!革新的な新流派が誕生

若くして北辰夢想流と小野派一刀流中西派を修めると、千葉周作の名は一躍江戸にまで轟きます。しかし、ひとつの悩みに直面。両流派の到達点に物足りなさを感じていたのです。千葉周作にとって剣技とは、結局「剣のスピード」を突き詰めること以外、何ものでもありませんでした。その視点から言えば、北辰夢想流や小野派一刀流の伝統的な剣術型は無駄が多く、とりわけ剣技を神秘化する教えには強い抵抗があったのです。

しかし道場を継ぐとなれば、師匠の顔を立てて従来の伝統を受け入れざるを得ません。悩んだ末に千葉周作が出した結論は、義父である浅利義信のもとを離れ、自らの理念を体現する独自流派を創始すること。こうして生まれたのが、両流派の利点を合わせ、シンプルに剣の速さのみを追求した「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)です。

ただし、より軸足が置かれていたのは小野派一刀流。相手が打ち込んだ瞬間に先に打ち込む「切り落とし」という技に代表されるように、瞬速を旨とする剣法です。この速度を限りなく高めるために心と体を一致させるというのが北辰一刀流の真髄であり、極意でもありました。



2、門弟が殺到!剣術界のカリスマへ

諸国放浪の旅で剣名を轟かした逸話

千葉周作の強さや人望を象徴する逸話として欠かせないのが、1820年(文政3年)に上野国(現在の群馬県)で起こった「伊香保神社掲額事件」(いかほじんじゃけいがくじけん)です。

江戸で次々と他流試合を挑み、ことごとく勝利を収めた千葉周作は、やがて関東一円での剣術廻国を開始。至るところで高名な道場や剣豪を破り続け、もはやその名を聞くだけで門弟が殺到するほど剣名が鳴り響いていました。

そこへ立ちはだかったのが上野国の最大流派「真庭念流」(まにわねんりゅう)。上州一の剣豪と称された「小泉弥兵衛」(こいずみやへえ)が敗れた上、北辰一刀流の子弟達が「伊香保神社」(現在の群馬県渋川市)に奉納額を納めようとしたことで、両派が対立。伊香保を舞台に戦国時代さながらの陣地が構築されるなど、一触即発の事態に発展したのです。

一説によれば、ここで千葉周作は単身で真庭念流の陣地に潜入。当主「樋口定次」(ひぐちさだつぐ)を誘拐して話し合いの場を設け、両派が撤退することで激突を回避させたと言われています。この巧みな駆け引きと豪胆な行動により千葉周作の名はさらに高まり、もはや剣豪の域を超えて、生ける伝説級のカリスマ性を持つようになりました。

上野国から撤退後、千葉周作は1822年(文政5年)に満を持して剣術道場「玄武館」(げんぶかん:東京都中央区日本橋。のちに神田於玉ヶ池へ移転)を設立。入門者はまたたく間に膨れ上がり、日本最大の剣術流派となったのです。

有名な幕末志士も続々と入門を志願

当時の江戸では三大剣術道場が頂点に君臨していました。千葉周作の玄武館、「神道無念流」(しんとうむねんりゅう)の「斎藤弥九郎」(さいとうやくろう)が開いた「練兵館」(れんぺいかん)、「鏡新明智流」(きょうしんめいちりゅう)の「桃井春蔵」(もものいしゅんぞう)が営む「士学館」(しがくかん)です。それぞれ「技の千葉」、「力の斎藤」、「位の桃井」と比肩(ひけん:肩を並べること)されていましたが、門下の数は玄武館が突出。

門下生のなかには「新選組」(しんせんぐみ)の前身「浪士組」(ろうしぐみ)を結成した「清河八郎」(きよかわはちろう)や、幕臣として江戸城無血開城に尽力した「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)、新選組総長「山南敬助」(やまなみけいすけ)の他、千葉周作の弟「千葉定吉」(ちばさだきち)の分室道場「桶町千葉道場」(おけまちちばどうじょう:現在の東京都中央区)には、「坂本龍馬」も名を連ねていました。

多くの有名志士を輩出した背景には、千葉周作の理念が深くかかわっています。当時、剣術界では免許皆伝に至るまで細かな階梯(かいてい)が設けられ、昇段ごとに礼金や祝い金などが発生する仕組みでした。しかし北辰一刀流は、階梯を「初目録」、「中目録皆伝」、「大目録皆伝」の3段階に絞り、庶民にも広く門戸を開いたのです。

また、当時上流武士と下級武士が一緒に稽古することは御法度だったため、下級武士や庶民が剣を学ぶための分室道場を設立。坂本龍馬が桶町千葉道場に通っていたのはそのためです。剣術を特権階級以外にも広く普及させたことは、千葉周作最大の功績のひとつと言えるでしょう。



3、歴史上最も指導が上手な剣豪

他流派の半分の歳月で達人になれる奇跡の指導法

北辰一刀流が求める剣について、千葉周作は端的な言葉で表現しています。「それ剣は瞬息、心・気・力の一致」。つまり、瞬きや呼吸をするわずかな時間内にどれだけ太刀のスピードを上げられるかが強さの基準であり、そのためには心と技と力を完全に一致させなければならないという教えです。

稽古方法もあくまで心・気・力をあらゆる状況で一致させるための訓練に特化し、いっさいを合理化しました。例えば北辰一刀流では、撃剣を68手に細分化し、それらを洗練するために型稽古(防具などを付けずに木刀で行う稽古)と竹刀稽古の方法を確立。型稽古で技の体系を身に付け、竹刀稽古で剣速を磨くという手法です。

また、北辰一刀流は構えの際、剣先を細かく振るのが特徴ですが、これも剣の初速を高めるための工夫のひとつ。あくまで論理的に動作ひとつひとつを紐解き、「理」によって相手を制すのが北辰一刀流の本質でした。こうした指導法は剣技の上達に大きな効果をもたらし、他の流派では免許皆伝まで10年を要するところ、北辰一刀流は5年で修行が完成したと言われています。

理論的指導法が剣道のルーツに

晩年、千葉周作は剣術指導の腕前を買われ、水戸藩(現在の茨城県)の剣術師範に就任します。没年は1855年(安政2年)。北辰一刀流はそののち多くの子弟に受け継がれ、明治時代に剣術が剣道へと転換された際、稽古方法の根幹を成す役割を担いました。現在の剣道における型も、ほぼ北辰一刀流の68手が基盤になっています。千葉周作は剣術界に初めて合理性を取り入れ、近代剣術を大成させた人物とも言えるのです。






See You Again  by_nagisa

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