巴御前

今日の日本において、最も有名な女武将と言えば「巴御前」(ともえごぜん)でしょう。巴御前は源平合戦のとき、木曽義仲(きそよしなか)軍の一大将として活躍し、その勇猛さは日本各地に伝説が残るほど、語り継がれています。ここでは巴御前と木曽義仲との数々のエピソードともうひとりの女武将「葵御前」の伝説、日本全国にある巴御前ゆかりの地についてお話しましょう。
1、「一人当千の兵なり」
と記された女武将・巴御前
平安時代末期(12世紀後半)、源平合戦(源氏と平氏を主勢力とした内乱)において誰よりもその名を轟かせた源氏の血を引く信濃国(長野県)の武将、木曽義仲。
彼の愛妾であり、戦場では「木曽義仲軍の一隊の大将として活躍した」とその勇猛ぶりが語り継がれる女武者、それが巴御前です。
天下泰平を共に夢見た木曽義仲と巴御前
木曽義仲は、鎌倉幕府を開いた源頼朝といとこの関係にあたります。
しかし、世はまさに乱世。平氏を都落ちさせ源氏を勝利へと導いた最大の功労者と言える木曽義仲は、源頼朝の命を受けた弟、源義経(牛若丸)らとの戦いに破れ、31歳で近江国(滋賀県)の粟津ヶ原(大津市)で悲運の最期を迎えます。
当時の公家が残した日記や「吾妻鏡」(あづまかがみ:鎌倉時代に成立した歴史書)などから、粗野で乱暴者、あるいは逆賊という評価も受ける木曽義仲。確かにその一面はあったのかもしれませんが、「歴史は勝者がつくる」という面があることも事実。
松尾芭蕉をはじめ後世の偉人達が語る木曽義仲のもうひとつの側面、そして各地に残る史跡や伝承などからみた木曽義仲と巴御前についてご紹介しましょう。
武蔵国(埼玉県)生まれ、信濃国育ちの木曽義仲
長野県のイメージが強い木曽義仲ですが、生まれは埼玉県です。都で、「藤原氏」、「院」、「源氏」、「平氏」が利権を求め対立しあっていた平安時代後期。源氏は一族の活路を見出すために、都から地方へと子孫を送り込み、その地の豪族と血縁関係を結ぶことで地盤を築こうとしていました。
木曽義仲の父・「源義賢」(みなもとのよしかた)もそのひとりで、1154年(久寿元年)、武蔵国の最大勢力であった「秩父重高」(ちちぶしげたか)の娘との間に生まれたのが木曽義仲(幼名・駒王丸)です。
しかし、駒王丸がわずか2歳のとき、源氏の一族内の争い(一説には源氏の嫡流争い)で秩父氏と源義賢は死去。駒王丸は母とともに信濃国木曽地方の豪族・「中原兼遠」(なかはらかねとお)のもとへと落ち延びます。
中原兼遠の庇護のもと、その子ども達と兄弟のようにして育った駒王丸は、木曽の山野を駆け巡り、木曽冠者義仲というたくましい若者へと成長していったのです。
木曽義仲と巴御前との出会い
巴御前は、この中原兼遠の娘のひとり、「巴」であると言われています。
歳は木曽義仲より3つほど下で、のちに木曽義仲の片腕となる「樋口次郎金光」(ひぐちじろうかねみつ)と「今井四郎兼平」(いまいしろうかねひら)といった兄達とともに、木曽義仲の従者として活躍することを夢見て、幼い頃から馬に乗り、弓や刀も操る活発な女性であったようです。
そして、共に過ごす時間の流れの中で、自然と互いを大切に思うようになったと伝えられています。
争いのない信濃のために
ただ、木曽義仲と巴御前は、結局、夫婦という間柄にはなりませんでした。一説には、中原兼遠が、巴ではなく、おとなしい姉娘の「山吹」(やまぶき:信濃の豪族・海野氏の娘との説も)を木曽義仲と結婚させたとか。
また、木曽義仲自身、恩のある信濃を争いのない国にしたいと願い、他の豪族と婚姻関係を結ぶことによる勢力拡大の道を探ります。巴御前は、女性として複雑な思いを持ちつつも、愛妾という立場に留まり、共に時代を切り開く同志としての道を歩むのです。
日本各地で語り継がれる巴御前の勇猛ぶり
巴御前は、現在、日本で最も名が知れた女武者ですが、実のところ、「平家物語」に「一人当千の兵(つわもの)なり」(ひとりで多勢の敵に対抗できる並ぶ者がない強さ)と記されるほどの武勇伝を物語る確たる史料は残念ながらありません。
一方で、巴御前の塚は全国に15ヵ所も存在しており、彼女にまつわる伝承は800年のときを経た今も各地に息づいています。
それゆえ、「いたとも言えるし、いないとも言える」存在なのですが、実在したと仮定して、様々な伝承から巴御前の勇猛ぶりをまとめると次のようになります。
巴御前は、色が白く、髪の長い、非常に美しい女性であったようです。その彼女がいったん戦場へ赴くと、強弓を引く剛の者となり、日本刀を持てば、相手が例え鬼や神でも相手にしようという女武者へと変貌。平家10万の大軍を破り、源平の勢力を逆転させた戦いとして有名な「倶利伽羅峠の戦い」(くりからとうげのたたかい)では、一隊の大将として活躍。
源頼朝が派遣した鎌倉勢の大軍により木曽義仲が非業の死を遂げた「粟津の戦い」(あわづのたたかい)でも、最後に主従わずか5騎になったとき、彩り美しい鎧を着て屈強の荒馬に乗った彼女の姿が、その中にしっかりとあったと言われています。
この戦を起こすのは天下泰平のため
さらに、こんな話も付け加えましょう。後世、多くの偉人達が、吾妻鏡など今に残る当時を記した歴史書とは一線を画す高い評価を木曽義仲にしています。
俳人・松尾芭蕉は自らの墓を木曽義仲が眠る「義仲寺」(ぎちゅうじ)にしてほしいと遺言し、今2人は同じ場所で眠っています。
また、文豪・芥川龍之介は木曽義仲を「情の人」であり時代の先駆者として高く評価し、江戸期の政治家であり近世屈指の大学者と言われる新井白石は著書「読史世論」(とくしよろん)の中で、木曽義仲は民衆のため、世直しのために戦ったと書いています。
木曽義仲と巴御前が生きたのは、戦乱の世というより、国の秩序そのものが根底から乱れていた乱世の時代。巴御前は、信濃という一地方で生まれた女性でありながら、時代を動かすリーダーとなろうとした木曽義仲の志を理解し、共にそれを叶えようとした画期的な人物であったとも言えるかもしれません。
2、木曽義仲最後の戦いにみる女武将
・巴御前の勇猛ぶり
平安末期の「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん:源平合戦とも呼ばれる)において、源氏側の大将として活躍した木曽義仲の愛妾であり、優れた臣下としても名を残す巴御前。
彼女の勇猛ぶりが最も伝わるエピソードをご紹介しましょう。
木曽義仲最後の戦いの場にいた巴御前
私達が巴御前の戦いの様子に触れることができるのは、鎌倉時代に成立したとされる平家物語で木曽義仲の最期を描いた場面です。
木曽義仲は、源氏にとっては平氏追討の一番の立役者と言えますが、歴史の主役に登りつめることなく31歳で悲運の最期を迎えます。木曽義仲最後の戦いとなった粟津の戦いで、巴御前が見せた武者としての勇猛ぶりを、平家物語は短い文章ながらしっかりと描写しています。
木曽義仲は、なぜ非業の死を遂げることになったのか?
粟津の戦いでの巴御前を語る前に、そこに行きつく流れを簡単にご紹介しましょう。
そもそも木曽義仲をはじめとする源氏が平氏打倒に向け挙兵したのは、1180年(治承4年)に「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)の皇子・「以仁王」(もちひとおう)が出した平氏追討の令旨(りょうじ)を受けてのこと。
「平治の乱」以降、富と権力を持った「平清盛」(たいらのきよもり)は、後白河法皇と一時は手を取り合い共に栄華を極めますが、次第に両者の間には政治路線の違いなどにより確執が生まれ、やがて激しく対立。平清盛はクーデターを起こし、後白河法皇を幽閉して院政をストップさせます。
院政は、皇位を後継者に譲った天皇が上皇(じょうこう)となり、政務を天皇に代わり直接行なう政治形態です。以仁王は、この後白河法皇の幽閉中に全国の源氏に平清盛の追討令を出し、伊豆で源頼朝(みなもとのよりとも)、木曽で木曽義仲、そして甲斐では武田(甲斐源氏)が挙兵します。
なかでも、最も活躍したのが木曽義仲でした。1181年(治承5年)、越後(新潟県)の城氏(平氏一族)の軍を千曲川の横田河原で撃破し、1183年(寿永2年)には越中(富山県)・加賀(石川県)の武士とともに倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を一夜のうちに壊滅。さらに勢いに乗って北陸道を進軍し、延暦寺も味方に付けます。結果的にこれが引き金となり、平氏は都で木曽義仲と戦うことなく、一門で都落ちする道を選ぶのです。
1183年7月、平氏追討の最大の功労者として、京の都入りを果たした木曽義仲。後白河法皇からはその功に対し、「朝日将軍」の称号を与えられます。
しかし、入京後の木曽義仲は、後白河法皇の不興を買ってしまうのです。混乱を極めていた都の治安回復が木曽義仲に望まれた任でしたが、彼に追随するように都に集まってきた源氏達の狼藉が目立ち、治安が一向に良くならないことに後白河法皇がしびれを切らしたこと、加えて次の天皇選びに関して法皇と木曽義仲とでは異なる意見を持っていました。さらに、自分達の立場を優位にしたい公家による「木曽義仲は武骨者。いずれ朝敵となる」という中傷が都を駆け巡ったのです。
こうした背景の中、源氏内の主権争いも絡んで後白河法皇と手を組んだ源頼朝が、弟の「源範頼」(のりより)・源義経に命じ、東から木曽義仲討伐の鎌倉軍を都へ差し向けます。両者による最後の合戦の地となったのは、木曽義仲が都から逃げ落ちた近江国粟津(滋賀県大津市)でした。
平家物語が記すところによると、鎌倉軍勢6万余騎に対し木曽義仲軍勢はわずか1600騎ほどで、まさに多勢に無勢状態。最後は軍騎わずか5騎となり、もはやどうすることもできず、琵琶湖が眼前に広がる近江粟津の松原で命を落としたのです。木曽義仲31歳、巴御前は28歳でした。
粟津の戦いでの巴御前
巴御前は、木曽義仲最後の戦いとなった粟津の戦いにおいても、臣下として木曽義仲に寄り添うように戦っていました。そして、平家物語は、木曽義仲の巴御前との最期のときをこう描写しています。
「そなたは女なのだから、早くどこでもいいから落ちて行け。我はここで討ち死にすると思う。木曽殿は最後まで女を連れていたとあっては聞こえが悪い」
巴御前はそれでも木曽義仲の側を離れようとはしなかったが、木曽義仲は繰り返し「逃げるように」と語り続ける。そんな木曽義仲をみて巴御前は、「ああ、良い敵がいないだろうか。私の最期の戦いをお見せ申し上げたい」と言い、並の男でも太刀打ちできぬほどの敵を探すように待ち受けていると、武蔵国でも力持ちと名高い御田八郎師重(おんたのはちろうもろしげ)が、三十騎ばかりで現れる。
巴御前はその軍勢の中に駆け入り、御田八郎に馬をぴったりと並べ、彼をむんずとつかんで馬から引きずり落とし、自分の馬の鞍の前輪に押し付けて相手を身動き取れない状態にし、首をねじ切って捨ててしまった。その後、巴御前は武具を脱ぎ捨て、東国の方へと逃げて行った。
おそらく巴御前の思いはこうだったのではないでしょうか。木曽義仲には妻も何人もの愛妾もいました。そんな中、巴御前は本妻になれずとも、誰よりも一番近くで木曽義仲を支えるために武将という道を選んだのです。最後のときまで一緒だと心に決めていました。
しかし、巴御前を諭すように何度も逃げろと語る木曽義仲をみて、自分への深い愛を感じたのでしょう。大切な人の目に、戦いに身を焦がすことで思いを捧げた自分の姿を焼き付けたかったのかもしれません。
3、女武将
・巴御前は91歳の天寿をまっとうした?
800年余り前の平安時代末期、日本最初の全国的な内乱と言われる治承・寿永の乱で、木曽義仲とともに戦った美貌と強弓の女武将・巴御前。
鎌倉軍との戦いで死を覚悟した木曽義仲の願いを受け、泣く泣く戦場を離脱した巴御前は、その後、どうなったのでしょうか。
尼となって生涯を終えた巴御前
巴御前の塚は、全国に15ヵ所ほどもあります。その中で、終焉の地と考えられているのが、当時は越中(えっちゅう)と呼ばれた富山県の南砺市福光天神(なんとしふくみつてんじん)にある物。巴松という1本の大きな老松の傘に守られるかのように佇む巴塚のあたりが、巴御前が尼となって晩年を過ごした草庵跡だと言われています。その地にたどり着くまでの彼女の足取りを追ってみましょう。
「源平盛衰記」が伝える巴御前のその後
巴御前の勇猛ぶりとともに、木曽義仲の最期のときを鮮明に描いた「平家物語」は、木曽義仲の命で彼女は東国に逃れたということだけを書き、その後については何ら語っていません。
代わって鎌倉中期~後期の軍記物語として知られる「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)が伝えるところによると、信濃に落ち延びたあとは、捕らえられて鎌倉へ。そこで敗軍の将として死罪を申し付けられますが、有力御家人の「和田義盛」(わだよしもり)が、「このような剛の者との子どもが欲しい」と助命を嘆願し、和田義盛の妻となりました。
そして、和田義盛の願い通り、豪勇を誇った朝日奈三郎義秀(あさひなさぶろうよしひで)という子を産み、和田一族が滅ぼされたあとには、倶利伽羅峠(くりからとうげ)などで共に戦った石黒氏(福光城主)を頼って越中に住み、出家して余生を送り、91歳で亡くなったと伝えています。
しかしこれは、フィクションだという説が有力のようです。巴御前が朝日奈三郎義秀の母と考えるには、彼の実年齢から難しく、伝説の域を出ないことがひとつ。
また、鎌倉幕府の事跡を記した歴史書とされる「吾妻鏡」(あづまかがみ)に、越後(新潟県)の「板額御前」(はんがくごぜん)という強弓の女武者の伝記が残されており、その後半生の話が巴御前のものとほぼ同じであることから、混同されて伝わったのではないかと。いずれにしても、現在の私達はその真意を確かめる術を持たない中、そうであったのかもしれないと思いを馳せることは自由でしょう。
巴御前の塚のひとつ、倶利伽羅峠にある巴塚の案内板には、源平盛衰記の内容の概要とともに、「尼となり兼生と称し宝治元年10月22日没し石黒氏が此の地に巴葵寺を建立したと伝えられている」と記されています。
「能」にみる巴御前のその後
室町時代に成立したとされる古典芸能「能」の演目に、「巴」があります。
木曽に住む僧が都へ上る途中、琵琶湖畔の近江国(滋賀県)粟津ケ原(あわづがはら)に立ち寄ると、神前で参拝しながら涙する女性と出会います。僧は不審に思い理由を尋ねると、粟津ヶ原の祭神はこの地で戦死した木曽義仲を祀っていると教え、供養を頼むのです。そして名乗ることもなく姿を消します。
僧が弔う中、夜になり、今度は凛々しい女武者姿で現われた女性は、自らを巴御前の霊だと名乗り、木曽義仲最期のときの様子や共に自害することを許されなかった心残りなどを語ります。
平家物語では、あっさりと描かれていた木曽義仲と巴御前の別れの場面も、能の巴では、「この小袖を木曽の妻子に届けよ」と木曽義仲が自身の形見を巴御前に託し、彼女が生き残るための必然性が描かれています。
ひとつの物語としての巴御前のその後でありますが、木曽義仲が眠る滋賀県大津市の義仲寺の創建のいわれは、次の通りです。木曽義仲の死後、墓所のほとりに草庵を結び、供養三昧の日々を送る見目麗しい尼層があり、里人が何者かと問うと、「われは名もなき女性」と語ったと言われています。この尼層こそ、巴御前だと伝わるのです。最後まで木曽義仲への慕情を抱いていた彼女の姿が目に浮かぶようです。
4、女武将
・巴御前が名の由来? 薙刀「巴形」
薙刀(なぎなた)は、長い柄の先に反りのある刀身を装着した日本の伝統的な武具で、平安時代に登場したとされています。そのひとつの型に、平安末期に活躍した女武将としての伝説が残る巴御前にちなんで名付けられたと言われる「巴形」(ともえがた)があるのです。
身幅が広く反りの大きい「巴形」
巴形は、薙刀のひとつの形で、刀身の幅が広く、切っ先が強く反る形になった物です。名前の由来は巴御前からと言われていますが、巴御前が実際に使っていた形がそうであったからという訳ではないようです。江戸時代になってからの命名で、一般的に婦人用に作られた薙刀を巴形薙刀と呼びます。
平清盛が普及?
薙刀の最古の形式は、長い柄を持つことから長刀という字が当てられていました。しかし、その後、長い刀を意味する「長刀」が生まれ、これとの区別のため、敵を薙ぎ切りする(横に大きく払って切る)物として、薙刀になったとされています。奈良時代~平安時代には、京都・奈良の大寺院で仏法守護のために戦闘に従事した僧兵の武器として威力を発揮。一説によると、平清盛が薙刀の利を強調し、平家一門がみな用いるようになったことで天下に普及したとも言われています。
その後、鎌倉時代~室町時代になると、騎乗の戦士を薙ぎ払うなどの威力を発揮し、主武器になりました。しかし、応仁の乱のあたりから戦いの主流が大勢の歩兵による密集戦に変わり、機能的な面から槍に戦場での主役の座を譲ります。そして、江戸時代には、幕府が武士の個人での薙刀の所持を禁止したことにより存続の危機が訪れますが、その対象が大薙刀と呼ばれる長大な物に限られたため、武芸となることで存続しました。
江戸時代になって生まれた巴形
江戸時代に、形に違いがある男薙刀と女薙刀が生まれます。男薙刀は、長く、先が幅広ではなく反りもさほど深くないのが特徴。
これに対して女薙刀は、刃長が短く、先幅が広く反りが深い物で、どちらかと言うと非実戦的な物と言えます。これは、非力な女性の体格に合わせて扱いやすくした物で、武家の婦女子の武術のたしなみとして「薙刀術」が盛んに行なわれるようになり、薙刀は嫁入り道具のひとつにもなりました。
そしてこの女薙刀の形を巴形という名称で呼ぶようになったようです。巴御前が薙刀をふるって奮戦した史実はどこにも記されてはいませんが、江戸時代の文楽や歌舞伎で戦う女性の代表格として巴御前が描かれたことが大きく関係しているのかもしれません。また、薙刀術には巴流という流派があり、広島藩などで行なわれていました。
ちなみに男薙刀の形の物は、「静形」(しずがた)と呼ばれ、一説には、源義経の愛妾・静御前(しずかごぜん)が由来とされます。ただ、「しずかがた」でなく「しずがた」と呼ぶことから、濃州志津三郎兼氏作の薙刀を由来とする「志津型」とする説もあります。
5、木曽義仲とともに戦ったもうひとりの
女武将・葵御前
悲運の武将と言われる木曽義仲の戦いの側には、実は、巴御前とは別にもうひとり、木曽義仲と共に戦うことを懇願した女武将がいたと、各地に残る義仲伝説は伝えています。葵御前(あおいごぜん)と呼ばれるその女性をご紹介しましょう。
木曽義仲と共に戦いたいと強く願った葵御前
葵御前にまつわる話は、巴御前以上に伝説の域を出ていないところがありますが、長野県の木曽福島の「たいまつ祭り」では、馬上で鎧姿に身を固めた木曽義仲と巴御前、そして葵御前と「山吹御前」(やまぶきごぜん:一説には巴御前の姉で木曽義仲の正妻)の美しく凛々しい姿を見ることができます。
また、源平の勢力を逆転させた戦いとして有名な倶利伽羅峠の戦いの古戦場跡には、「巴塚」とともに「葵塚」もあり、木曽義仲に仕えた女武将であったと記されています。
善光寺別当の娘・葵御前
葵御前も巴御前と同じく木曽義仲の愛妾で、栗田範覚(くりたかんかく)の娘だとされています。栗田氏は、善光寺(ぜんこうじ)をよりどころとする北信地方の武家氏族のひとつで、栗田範覚は木曽義仲挙兵に応じて出陣した、いわゆる木曽義仲軍の武将です。
鎌倉幕府の成立後は、戸隠山別当(とがくしやまべっとう)に加えて善光寺別当(ぜんこうじべっとう)にも任じられ、以後、栗田氏は両方の別当職(大寺の長官職)を何代にもわたって受け継いだということです。その父のもと、葵御前は幼少の頃から武術の稽古に励み、巴御前のように木曽義仲と共に戦うことを望んだようですが、伝説によれば、巴御前のような才覚に恵まれなかったことに加え、15歳のときに大病を患って病床に伏せることが多くなり、その願いはなかなか叶えられませんでした。
そういった境遇から、戦場においても常に木曽義仲と行動を共にする巴御前をうらやんだとも伝わります。一方で、常に木曽義仲の側に付き従い、各地を転戦したとも言われています。
病を押し、木曽義仲と共に戦いたいと強く願った葵御前
さらに、こんな逸話も。木曽義仲と共に戦場で戦いたいと願うあまり、彼の挙兵後間もなく、人ではない者と契約し、巴御前と同等の武力を得たとされてます。
そして父・栗田範覚が娘の身体を心配して反対する中、強く願って倶利伽羅峠の合戦に出陣。薙刀を振るい、巴御前以上の働きをしたものの、だんだんと精気が失われていき、闘いの最中に倒れてしまったというのです。倶利伽羅峠の古戦場跡の葵塚には、ただ、倶利伽羅峠の戦いで討ち死にしたと記されています。
木曽義仲が葵御前のためにつくらせた「葵の湯」
長野県上田市の塩田平にあり、第12代「景行天皇」(けいこうてんのう)の時代に、「日本武尊」(やまとたけるのみこと)が東征して発見したのが始まりとされる信州最古の温泉「別所温泉」。
ここにある共同浴場のひとつである「大湯」は、木曽義仲が平氏討伐のため都を目指して丸子城に駐留していた際に入浴したと伝わる湯です。
一説には、愛妾の葵御前の身体を案じ、彼女の療養のためにつくらせたとも伝わり、「葵の湯」とも言われています。
6、女武将・巴御前ゆかりの地を行く
平安末期の源平合戦で木曽義仲とともに戦った美貌と強弓の女武将・巴御前。彼女のゆかりの地をご紹介しましょう。
全国各地で今も顕彰を続ける人があとを絶たない巴御前
歴史資料で足跡を確かめることはできなくても、各地に数多く残る伝承や史跡でたっぷりとその存在感を漂わせている巴御前。塚の数だけみても全国に15ヵ所ほどもあるという彼女にゆかりのある地の中から、抜粋してご紹介しましょう。
巴御前が尼層となり弔った木曽義仲眠る「義仲寺」
鎌倉軍と戦い、近江の粟津ヶ原で壮絶な最期を遂げた木曽義仲は、現在は滋賀県大津市となったその終焉の地である義仲寺で眠っています。義仲寺は、JR膳所駅・京阪電鉄膳所駅から琵琶湖に向かって300mほどのところにあり、尼となった巴御前が木曽義仲供養のために墓所のほとりに草庵を結んだのが始まりだと言われています。
里人が尼僧に何者かを幾度尋ねても、われは名もなき女性と答えるのみだったことから、草庵は「無名庵」(むみょうあん)と呼ばれるようになり、今も義仲寺の境内に史跡として残っています。江戸時代になると、義仲寺に足しげく通う俳人がいました。松尾芭蕉です。大坂で客死した松尾芭蕉は、亡骸を木曽塚(木曽義仲の墓所)に送れという遺言を残しており、松尾芭蕉もこの義仲寺で眠っているのです。
なぜそのような遺言を残したかは定かではありませんが、「奥の細道」の旅で北陸道を歩き、悲運の武将・木曽義仲を慕う人々の思いに共感を覚えたのかもしれません。
木曽川・巴ヶ淵の龍神伝説
長野県を流れる木曽川の木曽町山吹山のふもとあたりに、水の流れが巴状に渦を巻く深い淵があります。
巴状とは水が渦をまくさまを表現するときに使われるのですが、いつのころからかこの渕を巴御前にちなんで「巴ヶ淵」(ともえぶち)と呼ぶようになったと言われています。この地に残る伝説では、木曽義仲の生涯を守るため、ここに住む龍神が化身して巴御前になったとか。
また、巴御前は、幼いころからここで水浴びをしたり泳いだりし、武技を練ったとも伝わります。山吹山の四季折々の風情は筆舌に尽くしがたいほどの趣きで、特に秋の実り豊かな紅葉が水面に映り込むさまや、春に山吹が咲き乱れ、巴状に蒼く渦巻く淵とのコントラストは見ごたえたっぷりです。
同じ木曽町にある木曽義仲の菩提寺「徳音寺」には、木曽義仲の墓を中心に、右側に母小枝御前と今井四郎兼平、左側に巴御前と樋口次郎兼光の墓碑が並んでおり、ここの巴塚には、「龍神院」の文字が刻まれています。
木曽義仲と巴御前の像が出迎える「義仲館資料館」
巴ヶ淵や徳音寺のすぐ近く、長野県木曽町中山道宮ノ越宿にあるのが「義仲館資料館」です。木曽義仲の短くとも壮絶な生涯、その彼に常に寄り添った巴御前の生きざまを絵画や人形を使って分かりやすく解説しています。
樹齢約750年を誇る「巴塚の松」
富山県南砺市福光に、巴御前が尼となって晩年を過ごしたと言われる草庵跡があり、彼女の遺言で植えられたという樹齢約750年の1本の大きな老松が「巴塚の松」です。
この草庵跡は、巴御前の終焉の地であると言われており、彼女の命日とされる10月22日に合わせ、毎年10月に「巴忌」という法要が営まれています。また、巴松の実生から育った松が全国の巴御前ゆかりの地へ送られています。
See You Again by_nagisa
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