巻六 (84)世尊寺に死人、掘出す事


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 今は昔。
 世尊寺の建っている場所は、桃園大納言がお住まいになっていたところで、
 大納言が、近衛大将となる宣旨を受けた際、
 お祝いの饗応のため屋敷を修理し、大いに祝った場所であった。
 だが大納言自身は、その二日後、にわかに亡くなってしまった。

 主人の急死に、家来どもはみな立ち去り、
 屋敷には故人の奥方と若君だけが、さびしく住み残っていた。
 ちなみにその若君は、主殿頭ちかみつ、と言った。

 さてその後、屋敷は一条摂政・藤原伊尹(これただ)公のものとなった。
 そして伊尹公が太政大臣になられた際、
 同じようにお祝いの饗応がひらかれることになった。
 伊尹公は、庭の西南の隅に塚があって、
 それが築地を越えて、高台のようになっているのをご覧になり、
「あそこに堂を建てるぞ。塚を壊して、その上に堂を建てるのだ」
 と定められると、人々も、
「塚のためにも、良い功徳になることでしょう」
 と申し上げた。

 そうして、塚を掘り崩してみると、中から石の唐櫃が見つかった。
 開けてみれば、二十五六歳の尼が一人、美しい姿のまま、
 唇の色など生前そのもので、えも言われぬ美しさのまま、眠っているように、
 そこに伏していたのである。
 身につけた衣も実に美しく、さまざまの色が彩なしていたから、
 若い乙女がにわかに死んだものであろうと思われた。

 遺体の前にはうつくしい、金色の杯が置いてあって、
 何より、世にもかぐわしい香りが、内から漂っていた。

 驚き、人々が群がって見ているうちに、
 北西よりさっと風が吹いて、さまざまのものを塵にして、失わせてしまったのである。
 金の杯のほかは、わずかばかりも残らなかった。

「そうとうに昔の亡骸であっても、骨や髪は散り失せることはないだろうに、
 あの風が吹いたせいで、すべて塵になって散らされてしまうとは、稀有のことだ」
 と言って、当時の人は不思議がったという。

 なお、伊尹公は、それから幾ばくもしないうちに亡くなったため、
「あの尼の祟りではないか」
 と人々は疑ったという。




原文
世尊寺に死人掘出事

今は昔、世尊寺といふ所は、桃園の大納言住給けるが、大将になる宣旨かうぶりに給にければ、大饗はあるじの料に修理し、まづは、いはひし給し程に、あさてとて、俄に失せ給ぬ。つかはれ人、みな出ちりて、北方、若君ばかりなん、すごくてすみ給ける。其若君は、主殿頭ちかみつといひしなり。此家を一條攝政殿とり給て、太政大臣になりて、大饗おこなはれける。ひつじさるのすみに塚のありける、築地をつき出して、そのすみは、したうづがたにぞ有ける。殿「そこに堂をたてん。この塚をとりすてて、そのうへに堂たてん」と、さだめられぬれば、人人も、「塚のために、いみじう功徳になりぬべきことなり」と申ければ、塚をほり崩すに、中に石の辛櫃あり。あけてみれば、尼の年二十五六ばかりなる、色うつくしくて、くちびるの色など露かはらで、えもいはずうつくしげなる、ね入りたるやうにて臥たり。いみじううつくしき衣の色々なるをなん着たりける。若かりける者のにはかに死たるにや金の坏(つき)、うるはしくて据ゑたりけり。入りたる物ねにもかうばしきことたぐひなし。あさましがりて、人々たちこみて見る程に、乾の方より風ふきければ、色々なる塵になんなりて失せにけり。金(かね)の坏(つき)より外の物、露とまらず。「いみじきむかしの人也とも、骨髪の散べきにあらず。かく風の吹に、塵になりて吹き散らされぬるは、希有の物なり」といひて、その此、人あさましがりける。攝政殿いくばくもなくて失せ給にければ、「此たたりにや」と人うたがひけり。



(渚の独り言)

においに言及するところが素敵です。

世尊寺:
せそんじ。検索すると出てくる、奈良・吉野の世尊寺とは別です。
あとで出てくる藤原伊尹の孫、書で有名な藤原行成が、隠居した後、祖父から引き継いだ屋敷内にお寺を建てて、それが世尊寺なので、原文では創建の年代とかがゴッチャになっているのかもしれません。
(行成さんが亡くなるのは、藤原道長の死亡日と同日。宇治拾遺物語の時代には、行成さんの「世尊寺」が存在していました)

桃園の大納言:
藤原師氏。ふじわらのもろうじ。
伯父にあたる時平が菅原道真を排除して藤原一門による摂関政治がぼちぼち完成、今度は身内で出世競争をするようになる頃の人です。
大将(近衛大将)に任じられて二日後に死亡――とありますが、そのことは、公卿任官の公式記録には載っていないそうです。
wikipediaによれば、親賢、保信、近信の三人の息子がいたそうですが、ちかみつ、は不明です。

一条摂政:
藤原伊尹。ふじわらのこれただ。桃園大納言・師氏さんの弟の子、つまり甥です。
冷泉天皇の外伯父として、権力掌握。摂関政治完成まであと一歩、というところで急死。
弟の兼家が藤原氏の長者になり、さらにその子供の道長が、摂関政治チャンピオンになります。

したうづがた:
したうず、というのは靴を履く際につける布帛製のの履物のこと。「襪」という漢字がありますが、「下沓」とも書くみたい。靴下とか足袋のことですね。
で、「したうず型」なので、靴下型のように、片側が切り立った三角形。



See You Again  by-nagisa

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