巻六 (90)帽子の叟、孔子と問答の事
今は昔。
唐土の孔子が、林の中の丘のようになったところで、
ひとときを過していた時のこと。
孔子は琴を弾き、弟子たちは書籍を読んでいたが、
そこへ舟に乗っていた、帽子の老人が、舟を葦につなぎ、岸へあがってきた。
杖をつき、琴のしらべが終るまで聞いていたから、
不思議な人だなと、弟子たちが不審がっていると、
やがて老人は、こちらを手招きする。
ひとりの弟子が行くと、
「あの琴を弾くのは誰か。もしかすると、国の王ではあるまいか」
と問うた。
「そうではありません」
と答えると、
「では、国の大臣か」
「それでもありません」
「では、国の役人か」
「それでもありません」
「では何者だ」
と問うので、弟子は、
「ただ国の賢者にして、政治を説き、悪しき行いを正される、立派な方でございます」
と答えた。
老人は、あざ笑い、
「いみじき痴れ者かな」
と言って、立ち去った。
弟子たちは不審に感じ、孔子のもとへありのままを報告した。
すると、孔子は、
「賢き人である。早くお呼びするのだ」
それで弟子たちは駆け出し、ちょうど舟を漕ぎ出そうとしていた老人を呼び止めると、
孔子のもとへ連れて行った。
孔子の言うには、
「あなたは何をして、日々をお過ごしでしょう」
「何もすることはない。ただ舟に乗り、心を遊ばせるためにあちこち出歩いている。
で、そういうおぬしは何者か」
「世の政道を正そうと、あちこち出歩いている者です」
と答えた。
老人は、
「極まったる徒労の人だ。
良いか、この世界には影法師というものがある。
晴れた日に現れ、それから離れようと駆け回ったところで、影法師は離れない。
しかし日陰にあり、心おだやかに過ごしておれば、影法師は自然と離れる。
そうではなく、日差しの下へ出て影法師より離れんと精力を傾けたところで、
影法師は決して離れることは無い。
また、犬の屍が水に流されて下っているときに、
これを捉えようとすれば、こちらが溺れて死ぬことになる。
お分りか――このように無益なことを、おぬしは行っているのだ。
ただ、人のあるべき場所で、一生を送る。
これが人生の望みである。
これをせずに、心を世間に染め、あれこれ騒ぎ回るなど、
きわめて甲斐の無い、愚かしいことではないか」
そう言うと、老人は返答も聞かずに立ち去り、舟に乗って行ってしまった。
孔子はその後ろ姿を見つめ、二度、拝礼し、
棹の音が聞こえなくなるまで、拝み続けていたという。
そして棹の音が消えると、車に乗って、帰ったと語られている。
原文
帽子叟興孔子問答事
今は昔、もろこしに孔子、林の中の岡だちたるやうなる所にて、逍遙し給。われは、琴をひき、弟子どもは、ふみをよむ。爰(ここ)に、舟に乗たる叟(そう)の帽子したるが、船をあしにつなぎて、陸(くが)にのぼり、杖をつきて、琴のしらべの終るを聞く。人々、あやしき者かなと思へり。この翁、孔子の弟子共をまねくに、ひとりの弟子、まねかりてよりぬ。翁云、「此琴引給はたれぞ。もし国の王か」と問ふ。「さもあらず」と云。「さは、国の大臣か」、「それにもあらず」。「さは、国のつかさか」、「それにもあらず」。「さはなにぞ」と問ふに、「たゞ国のかしこき人として政をし、あしき事を直し給かしこ人なり」とこたふ。翁、あざわらひて、「いみじきしれ者かな」といひて去りぬ。
御弟子、ふしぎに思ひて、聞きしまゝにかたる。孔子聞て、「かしこき人にこそあなれ。とくよび奉れ」。御弟子、はしりて、いま船こぎいづるを呼びかへす。よばれて出来たり。孔子のたまはく、「なにわざし給人ぞ」。翁のいはく、「させるものにも侍らず。たゞ舟にのりて、心を ゆかさんがために、まかりありくなり君は又何人ぞ」。「世の政を直さむために、まかりありく人なり」。おきなの云、「きはまりてはかなき人にこそ。世にかげをいとふものあり。晴にいでて、離れんとはしる時、影離るゝ事なし。影にゐて、心のどかにをらば、影離れぬべきに、さはせずして、晴にいでて、離れんとする時には、力こそつくれ、影離るゝことなし。また犬の死かばねの水にながれてくだる、これをとらんとはしるものは、水におぼれて死ぬ。かくのごとくの無益の事をせらるゝなり。たゞしかるべきゐ所しめて、一生を送られん、是今生ののぞみなり。このことをせずして、心を世にそめて、さわがるゝ事は、きわめてはかなきことなり」といひて、返答も聞かでかり行。舟にのりてこぎ出ぬ。孔子、そのうしろをみて、二たび拝みて、さほの音せぬ まで、拝み入てゐ給へり。音せずなりてなん、車にのりて、かへり給にけるよし、人のかたりしなり。
(渚の独り言)
今の日本でこそ通用しそうな老荘思想ですね。
まー、今の日本には、孔子様のように、徒労と知りつつ、あれこれ説いて回る聖人が必要なのかもしれませんが。。。
叟:
そう。老人。翁。
兒(=児)じゃありません。
孔子:
こうし。
有名な儒教の聖人ですが、老荘思想にあっては、こんなふうに、小物扱いされてケチョンケチョンです。
See You Again by-nagisa
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