巻八 (104)猟師、仏を射る事

昔、愛宕の山に、長年修行を続ける聖がいた。
修行を続ける間、一度も宿坊を出たことのないほどの行者であった。
さて、その宿坊の西に、猟師が住んでいた。
猟師はこの聖を尊敬し、いつも訪れては、何かしら献上していた。
あるとき、この猟師がしばらく訪れることができず、
久しぶりに食事袋に干飯などを入れて、聖を訪ねたところ、
聖は喜び、猟師が来なかった数日の頼りなさを話した。
その話の中で、聖がにじりよって言うには、
「先ごろ、たいへん尊い出来事があったのだ。
愚僧がここ数年というもの、他念なく経文を護持してきた験かもしれぬが――
象に乗られた普賢菩薩が、数夜つづけて、ここへお見えになったのだ。
だからおまえも今夜はここへ留まり、菩薩を拝むと良いぞ」
そんなふうに言われたので、猟師は、
「それは世にも尊いことが起きるものでございます。
それでは今晩はここに泊めていただき、菩薩を拝ませていただきます」
と、そのまま宿坊へ留まった。
宿坊に、聖の使う童子がいたので、猟師は、
「聖がご覧になったというのは、いかなる仏ですか。あなたも見ましたか」
と問うと、童子は、
「はい。五六回は拝見しました」
と言う。
猟師は、
「さて、わしでも見ることはできるだろうか」
と呟きつつ、聖の背後で、横になることもせずに待っていた。
九月二十日のことなので、夜も長い。
今か今かと待つうち、夜半も過ぎたかと思われるころ――。
東の山の峰から月がのぼったように見えた、と思うと、
峰の嵐がすさまじいほどに吹き込んできて、
宿坊の中がにわかに、光が差し込んだように明るくなった。
そうして表を見ていると、普賢菩薩が象に乗り、ゆっくりとお出ましになって、
やがて宿坊の前にお立ちになったのである。
聖は泣きながらこれを拝み、
「いかに、いかに、おまえも拝み奉るか」
と言えば、童子も、
「何で見えないことがありましょう。をいをい。いみじく尊いことでございます」
と感動しているが、猟師はふと、
(なるほど聖の方は数年来、ありがたいお経を護持し続けているのだから、
その目に見えるのはおかしくない。
しかし童子や我が身などは、経がどちら向きに置かれているかも知らないほどだ。
そんな者にまで仏が見えるなんて、おかしいではないか)
そう心の中で思うと、
(よし、試してやれ。これで罪を受けるべきはずもない)
と、尖り矢を弓につがい、拝み入っている聖の頭越しに、弓を強く引いて、
ひょうと放ったのである。
矢は過たず、仏の御胸のあたりへ当った――と見えた瞬間、
たちまち火を打ち消したように光が消えて、
さらに谷中へ轟かせるような大音を上げて、何かが逃げて行くのである。
聖はたまげて、
「これは、何ということをしてくれたのだ」
と、泣き惑うこと限りなかったが、猟師が申し上げるには、
「聖の目であれば仏も見ることが出来ましょうが、
罪深いわたくしのような者の目にも見えたため、
これは試してみなければと思い、矢を放ったのです。
もしあれが真実の仏であれば、まさか矢が当ることは、ありますまい。
が、どうやらあれは、怪しからぬものでございました」
と答えた。
そうして夜が開けて、点々とこぼれる血をたどって行くと、
せいぜい一町ほども歩いた先の谷底に、
大きな狸が、胸を尖り矢に射通されて、死んでいたのであった。
聖であっても無智であったため、このように化かされるのである。
猟師の方は、なるほど殺生を行う身ではあっても、
思慮ある者であったため狸を射殺し、その化けを暴いたのである。
原文
猟師仏を射る事
昔、愛宕の山に、久しく行ふ聖(ひじり)ありけり。年比行ひて、坊を出づる事なし。西の方に猟師あり。この聖を貴みて、常にはまうでて、物奉りなどしけり。久しく参りざりければ、餌袋(ゑぶくろ)に干飯など入れて、まうでたり。聖悦びて、日比のおぼつかなさなどのたまふ。その中に、居寄りてのたまふやうは、「この程いみじく貴き事あり。この年比、他念なく経をたもち奉りてある験やらん、この夜比、普賢菩薩象に乗りて見え給ふ。今宵とどまりて拝み給へ」といひければ、この猟師、「世に貴き事にこそ候なれ。さらば泊りて拝み奉らん」とてとどまりぬ。
さて聖の使ふ童のあるに問ふ。「聖のたまふやう、いかなる事ぞや。おのれも、この仏をば拝み参らせたりや」と問へば、童は、「五六度ぞ見奉りて候」といふに、猟師、「我も見奉る事もやある」とて、聖の後に、いねもせずして起き居たり。九月廿日の事なれば、夜も長し。今や今やと待つに、夜半過ぎぬらんと思ふ程に、東の山の嶺より、月の出づるやうに見えて、嶺の嵐もすさまじきに、この坊の内、光さしいりたるようにて明くなりぬ。見れば、普賢菩薩象に乗りて、やうやうおはして、坊の前に立ち給へり。
聖泣く泣く拝みて、「いかに、ぬし殿は拝み奉るや」といひければ、「いかがは。この童も拝み奉る。をいをい、いみじう貴し」とて、猟師の思ふやう、聖は年比経をもたもち読み給へばこそ、その目ばかりに見え給はめ、この童、我が身などは、経の向きたる方も知らぬに、見え給へるは、心は得られぬ事なりと、心のうちに思ひて、この事試みてん。これ罪得べき事にあらずと思ひて、尖矢(とがりや)を弓につがひて、聖の拝み入りたる上よりさし越して、弓を強く引きて、ひやうと射たりければ、御胸の程に当るやうにて、火を打ち消つごとくにて、光も失せぬ。谷へとどろめきて、逃げ行く音す。聖、「これはいかにし給へるぞ」といひて、泣き惑ふ限なし。男申しけるは、「聖の目にこそ見え給はめ、我が罪深き者の目に見え給へば、試み奉らんと思ひて、射つるなり。実(まこと)の仏ならば、よも矢は立ち給はじ。されば怪しき物なり」といひけり。夜明けて、血をとめて行きて見ければ、一町ばかり行きて、谷の底に大なる狸、胸より尖矢を射通されて、死して伏せりけり。
聖なれど、無智なれば、かやうに化されけるなり。猟師なれども、慮ありければ、狸を射害(いころ)し、その化をあらはしけるなり。
(渚の独り言)
聖の単純さが好きです。
日比のおぼつかなさなどのたまふ:
数日、おまえが来なかったので、何かあったのではないかと気にかかっていたのだ――という解釈になるようですが、適当訳者的には、「ここ数日、食事が届けられないので、困っていたのだ」的な意味を感じました。
普賢菩薩:
白い象に乗られたり、「釈迦三尊」としてお釈迦様の隣に並ばれることが多い模様(釈迦、文殊、そして普賢)。また、普賢菩薩は、釈迦如来の「慈悲行」を象徴する、とありました。
See You Again by-nagisa
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