巻八 (102)敏行朝臣の事(下)


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 巻八 (102)敏行朝臣の事(下)


さて生き返った敏行。
 妻子の方は、敏行の死に、泣き合いながら二日過していたが、
 そこへふと夢から覚めたような心地で敏行が目を開けたものだから、
 生き返った、と大いに喜び、敏行へ白湯などを飲ませた。

 そして敏行の方は、それにしても、自分は死んだはずだがと、
 堪え難かった出来事や、自分が発願を起こしてその徳で許されたことなど、
 明鏡に向ったようにはっきりと思い出せたため、
 体力が戻ったなら、身を心も清浄にして四巻経を書き、供養しようと誓った。

 やがて幾日かが過ぎて、普段どおりの心地になってきた。
 敏行はまず、四巻経を書き奉る紙を表具師に作らせ、罫線も引かせて、
 いざ書き奉ろうと思ったが、それでもなお、
 昔の、色気づいた心が涌いてきて、経文や仏の方へ心が至らず、
 あの女のもとへ行き、こちらの女を懸想して、
 さてどうすれば良い歌が詠めるだろうか、などと思っているうちに暇が無くなって、
 むなしく年月を過ごすうちに結局、四巻経を書くこともなく、
 与えられた寿命が尽きたのであろう、とうとう亡くなってしまったのだった。

 その後。
 十二年ばかり時代を隔てて、紀友則という歌人が、
 夢に、この敏行と思しき人に会った。
 とはいえ、その男を敏行だと思えても、姿形は例えようもない、
 あさましくも恐ろしい、忌まわしい様となっていた。

 この敏行が、友則に現世にいたころのことを伝えて、
「四巻経を書き奉るという発願により、しばらくの間命を助けられ、
 現世に返されましたが、心の愚かさのために怠り、
 その経文を書かないままに亡くなってしまい、
 今やその罪により、たとえることのできぬ責苦を受けていますのを、
 もし哀れだとお思いになるのなら、
 わたくしの発願した折の料紙が今も残っているだろうから、それを尋ね出し、
 三井寺の、なにがしという僧侶に書き供養していただくよう、お計らいください」
 と言って、大きな声を上げて泣け叫んだのであった。
 ……と見ると、友則は汗水になって目覚めた。

 翌朝、友則は夜明けや遅しとばかりにその料紙を尋ねだし、
 そのまま三井寺へ行って、夢で見た僧侶のもとへ行くと、
 僧侶の方もこちらを見つけて、
「喜ばしきことです。今ちょうど人を遣わそうか、
 それとも自ら伺って、お伝えしようかと思っておりましたが、
 こうしてお越しいただけることの喜ばしさ」

 友則は自分の夢を語るより先に、
「それはどういうことですか」
 と問うと、
「昨夜、拙僧の夢に、故敏行朝臣をお見かけしたのです。
 ……四巻経を書き奉るべきであったところ、心の怠りのため、
 書き供養することもないままになってしまい、
 今その罪のため際限のない苦しみを受けている。
 料紙は友則さまのもとにあるはずだから、その紙を探し出し、
 四巻経を書き、供養してください。仔細は友則さまに伺ってくれとのことでした。
 そして大きな声を放って、叫び泣きなさった……」
 と語ったため、友則は、あわれとも言うことができないほどであった。

 僧侶と差し向いになり、友則は二人で泣いて、
「わたくしもこれこれの夢を見て、その紙を尋ね出し、ここへ持参しております」
 と受け渡すと、敏行をたいそうあわれがり、
 僧侶は自ら経文を書いて、供養したのだった。

 やがて、二人の夢に、
 この功徳によって、堪え難い苦役が少し免れた――と、心地よさそうに、
 形も始めのようになって、だいぶ良いような敏行の姿が、見えたという。




原文
敏行朝臣の事(つづき)

妻子泣き合ひてありける二日といふに、夢の覚めたる心地して、目を見あけたりければ、生き返りたりとて、悦びて、湯飲ませなどするにぞ、さは、我は死にたりけるにこそありけれと心得て、勘へられつる事ども、ありつる有様、願をおこして、その力にて許されつる事など、明らかなる鏡に向ひたらんやうに覚えければ、いつしか我が力付きて、清まはりて、心清く四巻経書き供養し奉らんと思ひけり。
やうやう日ごろ経、頃過ぎて、例のやうに心地もなりにければ、いつしか四巻経書き奉るべき紙、経師にうち継がせ、罫掛けさせて、書き奉らんと思ひけるが、なほもとの心の色めかしう、経仏の方に心のいたらざりければ、この女のもとに行き、あの女懸想し、いかでよき歌詠まんなど思ひけるほどに、暇もなくて、はかなく年月過ぎて、経をも書き奉らで、この受けたりける齢、限りにやなりにけん、遂に失せにけり。
その後十二年ばかり隔てて、紀友則といふ歌よみの夢に見えけるやう、この敏行と覚しき者にあひたれば、敏行とは思へども、さまかたちたとふべき方もなく、あさましく恐ろしう、ゆゆしげにて、うつつにも語りし事を言ひて、「四巻経書き奉らんといふ願によりて、暫くの命を助けて、返されたりしかども、なほ心のおろかに怠りて、その経を書かずして、遂に失せにし罪によりて、たとふべき方もなき苦を受けてなんあるを、もし哀れと思ひ給はば、その料の紙はいまだあるらん、その紙尋ね取りて、三井寺にそれがしといふ僧にあつらへて、書き供養せさせて給べ」と言ひて、大なる声をあげて、泣き叫ぶと見て、汗水になりて驚きて、明くるや遅きと、その料紙尋ね取りて、やがて三井寺に行きて、夢に見えつる僧のもとへ行きたれば、僧見つけて、「嬉しき事かな。ただ今人を参らせん、みづからにても参りて申さんと思ふ事のありつるに、かくおはしましたる事の嬉しさ」と言へば、まづ我が見つる夢をば語らで、「何事ぞ」と問へば、「今宵の夢に、故敏行朝臣の見え給へるなり。四巻経書き奉るべかりしを、心の怠りに、え書き供養し奉らずなりにしその罪によりて、きはまりなき苦を受くるを、その料紙は御前のもとになんあらん。その紙尋ね取りて、四巻経書き供養奉れ。事のやうは、御前に問ひ奉れ、とありつる。大きなる声を放ちて、叫び泣き給ふと見つる」と語るに、あはれなる事おろかならず。さし向ひて、さめざめと二人泣きて、「我もしかじか夢を見て、その紙を尋ね取りて、ここにもちて侍り」と言ひて取らするに、いみじうあはれがりて、手づからみづから書き、供養し奉りて後、また二人が夢に、この功徳によりて、堪へ難き苦少し免れたる由、心地よげにて、形もはじめには変はりて、よかりけりとなん見ける。



(渚の独り言)

長かったけど、訳者的に、たいへんおもしろかったです。
それにしても最後、「少し免れたる由」とあるので、実は、完全に救われたわけではないのですね。。。

敏行:
(補足)三十六歌仙なのに、なぜ彼の死後がここまでボロクソに言われているのか、よく分りません。
「百人一首一夕話」によれば、書道で有名な小野道風(三蹟の筆頭)が、「すばらしい書家といえば」と問われた際に「空海と藤原敏行」と答えたほどの名筆。でも27歳で若死にしてしまったため、その後いろいろな伝説が生まれた――そうです。
ちなみに生年は不詳ですが、没年が901年で、866年には任官している記録があります。若死にはともかく、死亡時27歳は間違いかもしれません。

紀友則
彼も三十六歌仙の一人。「土佐日記」の紀貫之のいとこ。
藤原敏行とも、ちょっと遠いですが、親戚にあたります(敏行の母と妻が紀氏の出)。
検索したら、二人が載ってる家系図がありました。









See You Again  by-nagisa

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