巻十 (118)播磨守さだゆふが事(上)


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巻十 (118)播磨守さだゆふが事(上)

 
今は昔。
 播磨守公行(きんゆき)の子に、定輔(さだゆう)という人がいて、
 五条の辺に住んでいた。
 今の、あきむねという者の父親である。

 その定輔。
 阿波守さとなりの供をして阿波へ下ったが、その途上で死んでしまった。
 定輔と、阿波守さとなりとは親類の間柄で、
 さとなりはまた、河内の前司(ぜんじ)でもある。

 さて。
 この河内前司のもとには、あめまだら模様の牛があった。
 ある時、人がこの牛を借り、車を引かせて淀へ出かけたところ、
 樋爪橋(ひづめばし)へさしかかったところで牛飼いが操り損ない、
 片側の車輪を橋から落としてしまって、
 それに引かれて車ごと橋の下へ落ちようとする、ところを、
 この牛は、車が落ちる――と心得て、足を踏み広げて耐えたため、
 綱が切れ、車だけが落下して砕けたのだった。

 牛は、ひとりで橋の上に留まっていたし、
 落ちたのは人の乗らない車だったから、けが人もなかった。

「へたな牛であれば車にひかれて落ち、牛まで失われてしまっただろう。
 たいそうな牛の力だ」
 と、その辺にいた人は口をそろえて褒めた。

 そんなこともあったから、前司がこの牛を慈しみながら飼い続けるうち、
 ある時、どうしてということもなく、この牛がいなくなったのである。

(つづく)




原文
播磨守さだゆふが事

今は昔、播磨の守公行(きんゆき)が子に、さだゆふとて、五条わたりにしものは、この比ある、あきむねといふものの父なり。そのさだゆふは、阿波守さとなりが供に、阿波へくだりけるに、道にて死けり。そのさだゆふは、河内前司といひし人の類にてぞありける、その河内の前司がもとに、あめまだらなる牛、ありけり。其牛を人のかりて、車かけて、淀へ遣けるに、樋爪の橋にて、牛飼あしく遣て、かた輪を橋よりおとしたりけるに、引れて車の橋より下におちけるを、車のおつると心得て、牛のふみひごりて、てりければ、むながいきれて、車はおちてくだけにけり。牛はひとり、橋のうへにとゞまりてぞ有ける。人も乗らぬ車なりければ、そこなはるゝ人もなかりけり。「ゑせ牛ならましかば、ひかれて落ちて、牛もそこなはれまし。いみじき牛の力かな」とて、その邊の人いひほめける。
かくて、この牛をいたはり飼ふ程に、此牛、いかにして失せたるといふことなくて、うせにけり。




(渚の独り言)


つづきますー。

さだゆう:
注釈書には定輔とありましたのでそう書いてますが、今昔物語27巻「河内禅師牛為霊被借語」には「佐大夫」とあるようで、そっちの方が素直に読めるかもしれません。
父親の公行(きんゆき)は、今昔物語によれば、佐伯の公行。息子のあきむねは、顕宗。
藤原道長のライバル・藤原伊周派の女官・高階光子の夫(この光子さんが、さだゆうの母親かどうかは不明)。ちなみに光子さんは、道長一派を呪詛させたのが発覚して失脚してますが、公行の方は、各地の国司に任じられて、清閑寺というお寺を建立するなど、かなりの富を抱えていた模様です。
さらに検索してみると、道長の時代から約100年後の、久安4年に亡くなった藤原公行という人も出てきます。従三位、参議。「本名公輔」とあるので、いかにも定輔の父親っぽいですが、詳しいことは分かりません。

阿波守さとなり:
今昔物語によれば、阿波守・藤原定成。特に事跡は検索できませんでした。

河内前司:
前司は、前の国司のこと。
阿波守さとなりと、「河内前司といひし人」は、同じ人だと思うので、そう訳してあります。
というのも、歴代の河内守の中に、坂上田村麻呂の子孫で、坂上定成という人がいまして、これが、阿波守定成なのじゃないかと思うのです。別人というか、そこを気にしていない訳文もありましたが、同一人物だとした方が、すんなり読めます。
ちなみに今昔物語では、河内禅司。河内のお坊さん、という意味になりますが、前司であれば京都在で良いので、京都→樋爪橋→淀、という牛飼いのルート的には、前司が正しそうです。

樋爪橋:
ひづめばし。京都の南、桂川に、そういう橋がかかっていたようです。今でも、京都市伏見区羽束師古川町というところに「樋爪口」というバス停があります。
行先が淀とあるので、京都市内から、牛を引いて南へ向う途中だった、ということだと思われます。






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