巻十二 (151)河原の院に融公の霊住む事
巻十二 (151)河原の院に融公の霊住む事
今は昔、
河原院というところは、左大臣・源ノ融(とおる)公の屋敷であった。
陸奥・塩釜の地にある釜を模したものを造り、海水を取り寄せて焼き塩をつくるなど、
さまざまな興趣に富んだことをしながら、住んでいたという。
やがて融公が亡くなった後は、宇多院に献上され、
御子の醍醐天皇も、たびたび訪問されることがあった。
さて、宇多院がこの屋敷に住まわれていた時のこと。
ある夜中、何者かが西の対屋の塗籠の納戸を開け、
そよそよと物音をさせながら、近づいて来るような気がしたため、
家来に確かめさせると、昼の装束をうるわしく着込み、太刀をはき、笏を手にした人が、
二間ほどさがったところに、かしこまっていた。
「そこにいるのは何者だ」
と尋ねさせると、
「ここの主でございました、翁にござります」
と返答する。
「では、源ノ融の大臣か」
と再び尋ねさせると、
「その通りでござります」
と申し上げる。
「それで、どうされたか」
「ここは私の家なれば、住んでおりましたところ、
院がお越しになり、かたじけなく存じますが窮屈に感じられ、どうしたらよろしいかと」
そんなふうに申し上げたところ、院は、
「それは実に怪しからぬことではないか。
故大臣の子孫が私に与えたゆえ、私がここへ住まうのだ。
私が強引に奪い取って住んだならともかく、礼儀知らずに、このように恨むとは何事か」
と、声も鋭く仰せになれば、融公はかき消えるようにいなくなった。
その当時の人々は、
「宇田院は、たいそうな方におわします。
ふつうの人は、その大臣に会えば、そんなふうに鋭く言い返せないだろうに」
と言うのだった。
原文
河原の院に融公の霊住む事
今は昔、河原の院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩竃(しおがま)の形を作りて、潮を汲み寄せて、監を焼かせなど、さまざまのをかしき事を盡して、住み給ひける。大臣うせて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の御門度々行幸ありけり。まだ院、住ませ給ひける折りに、夜中ばかりに、西の対の塗籠をあけて、そよめきて、人の参るやうに思されければ、見させ給へば、晝(ひ)の装束麗しくしたる人の、太刀はりて、笏取りて、二間ばかりのきて、畏りて居たり。「あれは誰そ。」と問はせ給へは、「こゝの主に候翁なり。」と申す。「融のおとゞか。」問はせ給へば、「しかに候。」と申す。「さはなんぞ。」と仰せらるれば、「家なれば住み候に、おはしますがかたじけなく所狭(せ)く候なり。いかゞ仕ふべからん。」と申せば、「それはいといと異様の事なり。故大臣の子孫の、我にとらせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りて居たらばこそあらめ。禮も知らず、いかに此くは怨むるぞ。」と、高やかに仰せられければ、掻い悄つやうに失せぬ。その折の人々「猶御門は将殊(はたこと)におはします者なり。たゞの人はそのおとゞに逢ひて、さやうにすくよかには言ひてや。」とぞいひける。
(渚の独り言)
源融さんも、相手が帝だし、どうしたら良いかと迷っていたでしょうね。。。
河原の院
六条河原院。広大な屋敷として有名で、ここに出てくるように、源融の死後は子の昇が相続、昇から宇多上皇へ献上されて、仙洞御所(上皇のお住まい)になりました。
融の左大臣
源ノ融。みなもとのとおる。嵯峨源氏融流の始まり。嵯峨天皇の御子。
「源氏物語」の光源氏のモデルになったという説もあります。
百人一首は「河原左大臣」として登場。
みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに
――陸奥の「信夫捩じ摺り」のごとく誰のために乱れ染まったか。私のせいではないよ。
ちなみにご子息もみんな一文字でして、湛、泊、昇、望、副というみたいです。
宇多院
宇多天皇。醍醐天皇のお父様。
菅原道真などを重用して、寛平の治などといって、良い政治を行われますが、にわかに譲位(藤原氏に対抗する意味とか、仏門へ入るためとか諸説あり)、結局、菅原道真左遷に至ることになります。
宇田院から見ると、源ノ融は、大叔父(祖父の弟)に当ります。
延喜の帝
醍醐天皇。
See You Again by_nagisa
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