巻十五 (197)盗跖と孔子と問答の事


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巻十五 (197)盗跖と孔子と問答の事


 これも今は昔、もろこしに、柳下恵(りゅうかけい)という人がいた。
 世に優れた人物で、人々から重く用いられていた。

 この柳下恵の弟に、盗跖(とうせき)という人があった。
 とある山の懐深くに済んで、招き集めたさまざまな悪党を傍に置いて、
 人の物を自分の物とする悪行を重ねていた。
 盗跖が出歩けば、二三千という供の者がついて歩いて、
 道に行き会う者を滅ぼし、恥をかかせ、よからぬことの限りを好んで日々を送っていた。

 さてある時、柳下恵が、どこかへ行く途中で孔子に行き会った。
 孔子が、
「どこへ行かれるのですか。わたくしの方から参り、
 教えしようと思うこともありましたので、良いところでお会いできました」
 そういうと、下恵は、
「いかなる事でしょう」
「教えしようと思うのは、あなたの御舎弟のことです。
 彼はもろもろ悪の限りを好み、多くの人を嘆かせているが、どうしてそれを止めないのか」

 柳下恵が答えるには、
「わたくしの申すことなど、決して聞き入れる弟ではありません。
 それゆえ、わたくしも嘆きながら、年月を送っているというわけです」
 孔子曰く、
「あなたが教えぬのなら、私が行って教えましょう。いかがですか」

「決して、おいでになってはなりません。
 すばらしい言葉を尽くして教えても、心を入れ替えるような者ではありません。
 むしろ良くないことも起きましょう。そのようなことはお止めください」
「悪人とて、人間の肉体を得た以上、おのずから良いことに従うこともあるはず。
 それに、『これはだめだ、けっして聞かない』ということは、まあ無いことです。
 見てなさい。教えてきましょう」
 と、言葉を放って、盗跖のもとへ出かけた。

 さて馬から降り、門に立って見ると、
 ありとあらゆるもの、獣に鳥を殺戮し、さまざまな悪行を重ねたさまが見られた。
 孔子、そこにいた者を呼び、
「魯の国の孔子というものが参った」
 と伝えさせて、中へ入った。

 さて輩下の者からこれこれと聞いた盗跖は、
「孔子とは、音に聞いた者だ。何事があって来たのか。人にものを教える者だと聞くが、
 わしを教えに来たのか。よし、もしそれが我が心にかなうなら、言うことを用いよう。
 だが我が心に適わぬなら、肝をなますにしてしまえ」
 と言葉も荒くしている、ところへ孔子が進み出て、
 庭先に立ち、まずは盗跖を拝み、座についた。

 さてこの盗跖はと見れば、頭の髪は上向きに逆立ち、蓬(よもぎ)のように乱れている。
 目は大きく、こちらを凝視し、鼻息を吹き怒らして牙を噛み、
 しかも、輩下の者に髭を剃らせているところであった。

 盗跖曰く、
「汝が来た理由は何だ。しかと申せ」
 と、怒声高く、恐ろしく言う。
 孔子が内心で思うには、
(かねて聞いていたことだが、これほどおそろしい者だとは思わなかった。
 姿かたち、声、およそ人間とも思えぬ)
 と、肝も心もくだけて、震えが出るほどだったが、強く思いを込めて言った。

「人の世のありようは、道理を自分自身の飾りとし、心を己の掟とするものです。
 天をいただき地を踏み、四方をかためとして、おおやけを敬い奉る。
 下々の者を憐れみ、人に情けを致す――そういうことを為すものです。
 聞くところによれば、心の欲するままに、悪しきことのみをするのは、
 一時は自分の心に叶うようであっても、ついには悪しき結果をもたらすとか。
 それゆえ人は、善に従うことを、良しとするのです。
 それゆえ、あなたも私の言葉に従って行動すべきであると、そのことを告げに来たのです」

 そのように孔子が言うやいなや、盗跖は雷鳴のごとき声で大笑いした。
「おまえの言うことは一つも当たらぬ。その理由を言おう。
 昔、堯舜という二人の帝がいて、世の人に尊ばれていた。
 しかるに、その子孫には、この大地に針を刺すばかりの所領も残されておらぬ。
 また、世に賢き者として、伯夷、叔斉というのがいたが、これも首陽山に行き倒れ、飢え死にした。

 ところでおまえの弟子に、顔回というのがいて、賢いことを教え広めていたが、
 不幸にして短命で死んだな。
 それから子路というのもあったが、衛の国に仕えて殺された。
 こうして見れば、賢い輩と言っても、結局のところ賢いものでなし、
 わしもまた、悪しきことを好むが、災いが我が身にふりかかりもせぬ。
 人から褒められるのも、せいぜい四五日に過ぎぬ。
 悪しきことも良きことも、長く褒められもせず、長くそしられもしないのだ。
 ゆえにわしは、我が好むところに従って、生きるだけのこと。

 おまえは木を折って冠にし、皮をもって衣にし、公権力におびえているようだが、
 二度も故郷の魯国から追い出され、衛の国からも足跡を削られている。
 どこが賢いものか。おまえの言うところは、まことに愚かである。
 すみやかに走り帰れ。一つとして用いるところはない」

 そう言うと、孔子はもう継げる言葉が無くて、座を立ち、
 いそいで外へ出ると馬へ乗り、よくよくおびえていたのだろう、
 轡を二度も取り損ない、あぶみまで踏み外して立ち去るのだった。
 これを世の人は、「孔子倒れす」と言うのである。




原文
盗跖と孔子と問答の事

これも今は昔、もろこしに、柳下恵(りうかくゑい)とうふ人ありき。世のかしこき者にして、人に重くせらる。其おとうとに、盗跖と云ものあり。一の山のふところに住て、もろもろのあしき者をまねき集て、おのが伴侶として、人の物をば我物とす。ありくときは、此あしき者どもを具する事、二三千人なり。道にあふ人をほろぼし、恥を見せ、よからぬことの限を好みて過すに、柳下恵、道を行時に、孔子にあひぬ。
「いづくへおはするぞ。自(みづから)對面して聞えんと思ふことのあるに、かしこくあひ給へり」と云。柳下恵「いかなる事ぞ」と問ふ。「教訓し聞こえむと思ふ事は、そこの舎弟、もろもろのあしきことの限りをこのみて、多くの人を嘆かする、など制し給はぬぞ」。柳下恵、答て云、「おのれが申さむことを、あへて用べきにあらず。されば嘆ながら年月を経る也」といふ。孔子のいはく、
「そこ教へ給はずは、われ行て教へん。いかがあるべき」。柳下恵云、「さらにおはすべからず。いみじき言葉をつくして教へ給ふとも、なびくべき者にあらず。返てあしき事いできなん。有べき事にあらず」。孔子云、「あしけれど、人の身をえたる者は、おのづからよきことをいふにつく事もある也。それに、「あしかりなん、よも聞かじ」といふ事は、ひがごと也。よし、見給へ。教へて見せ申さん」と、言葉をはなちて、盗跖がもとへおはしぬ。
馬よりおり、門にたちて見れば、ありとあるもの、しし、鳥をころし、もろもろのあしき事をつどへたり。人をまねきて、「魯の孔子と云ものなん参りたる」と、いひ入るるに、即使かへりていはく、「音にきく人なり。何事によりて来れるぞ。人を教ふる人と聞。我を教へに来れるか。わが心にかなはば、用ひん。かなはずは、きもなますにつくらん」と云ふ。其時に、孔子すすみ出て、庭にたちて、先盗跖をおがみて、おぼりて座につく。盗跖をみれば、頭の髪は上ざまにして、みだれるたること蓬(よもぎ)のごとし。目大にして、見くるべかす。鼻をふきいからかし、きばをかみ、髭をそらしてゐたり。
盗跖が云、「汝来れる故はいかにぞ。慥に申せ」と、いかれる聲の、たかく、恐ろしげなるをもていふ。孔子思給、かねても聞きしことなれど、かくばかりおそろしき者とは思はざりき。かたち、有様聲迄、人とはおぼえず。きも心もくだけて、ふるはるれど、思ひ念じていはく、「人の世にある様は、道理をもて、身のかざりとし、心のおきてとするもの也。天をいただき、地をふみて、四方をかためとし、おほやけをうやまひ奉る。下を哀みて、人になさけをいたすを事とするもの也。しかるに、承れば、心のほしきままに、あしき事をのみ事とするは、當時は心にかなふやうなれども、終りあしきものなり。されば猶、人はよきにしたがふをよしとす。然れば申にしたがひていますかるべきなり、其事申さむと思ひて、参りつるなり」といふときに、盗跖、いかづちのやうなる聲をして、笑ていはく、「なんぢがいふ事ども、一もあたらず。其故は、昔、堯舜と申二人のみかど、世にたうとまれ給ひき。しかれども、その子孫、世に針さすばかりの所をしらず。又、世にかしこき人は、伯夷、叔齊なり。首陽山にふせり、飢ゑ死き。又、そこの弟子に、顔囘といふものありき。かしこく教へ給しかども、不幸にして、いのちみじかし。又、おなじき弟子にて、子路といふものありき。衛の門にしてころされき。しかあれば、かしこき輩は、つひに賢き事もなし。我又、あしきことを好めども、災、身に来らず。ほめらるるもの、四五日に過ず。あしき事もよきことも、ながくほめられ、ながくそしられず。しかれば、わが好みに髄、ふるまふべき也。汝また木を折りて冠にし、皮をもちて衣とし、世をおそり、おほやけにおぢたてまつるも、二たび魯にうつされ、あとを衛にけづらる。などかしこからぬ。汝がいふ所、まことにおろかなり。すみやかに、はしりかへりぬ。一も用ゆべからず」と云時に、孔子、また云べきことおぼえずして、座をたちて、いそぎ出て、馬に乗給ふに、よく憶しけるにや、轡を二たびはづし、あぶみをしきりにふみはづす。
これを、世の人「孔子倒れす」と云なり。

 
(渚の独り言)

最終話! 孔子けちょんけちょん。
最後の最後だから、教訓めいた説教で締めくくると思いきや、孔子けちょんけちょんで終りました。
宇治拾遺物語の最終話にふさわしい、かどうかは読者次第ですね。

孔子
いわずと知れた神様で、中国共産党なども、「孔子学院」なんちゅって、中国文化の布教とスパイ活動に積極利用してますが、宇治拾遺(元ネタ荘子)では、とりあえず、ケチョンケチョンです。
孔子の年表を見ると、26才くらいで魯に仕官し、34才頃で主君の魯の昭公がクーデターに失敗し、主とともに斉に亡命。そのうち帰国し、何だかんだあって魯に再び仕官。
手柄を立てたり、政敵とゴタゴタしたりして、56才で魯を去って外遊、衛の国に移動。それから、各地を遊説して歩く。と、衛の国に内乱があって、ゴタゴタするうちに、魯に帰る。。。となっています。
追い出されたかどうかはともかく、盗跖が言うことは、事項的にはそれほどは間違っていないです。
宇治拾遺の孔子ネタは、他に、
(90) 帽子の叟、孔子と問答の事
(152) 八歳童孔子と問答の事

盗跖
とうせき。春秋・戦国時代の盗賊で、中国では盗賊の代名詞扱い。
兄が官吏だという点、ちょうど、日本の袴垂と藤原保昌が元ネタに使った感じかもしれません。
この元ネタ荘子雑篇「盗跖」に、これの詳細が乗っていまして、そこでは兄の名は柳下季。
筋書きは同じで、宇治拾遺は、荘子の話をかいつまんで、よくまとめていると思います。

顔回
孔子の弟子で、「一を聞いて十を知る者」。
孔子の教えに忠実に生き、質素につつましく生きた挙句、師匠よりも早死にしたので、惜しまれました。

子路
これも孔子の弟子で、もとは屠殺場をごろついていたやくざ。血の気が多いので、孔子は心配していたようです。孔子の推薦で衛の国に仕官しますが、内乱で殺された挙句、死体を塩漬けにされます。










See You Again  by_nagisa

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