今日の日本において、最も有名な女武将と言えば「巴御前」(ともえごぜん)でしょう。巴御前は源平合戦のとき、木曽義仲(きそよしなか)軍の一大将として活躍し、その勇猛さは日本各地に伝説が残るほど、語り継がれています。ここでは巴御前と木曽義仲との数々のエピソードともうひとりの女武将「葵御前」の伝説、日本全国にある巴御前ゆかり…
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むかしむかし、あるところに一人の商人がいました。 この商人はとても商売が上手で、あちこちの村をまわるたびに、大もうけをします。 あるとき、お金のいっぱい詰まった行李(こうり→旅用の荷物入れ)をかついで、町へ品物を仕入れに出かけました。 その途中に立派なお宮があると聞いたので、商人はお参りにいくことにしました。 …
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むかしの事でございます。 お白州(しらす)といって、罪人(ざいにん)が裁判(さいばん)を受けるところがありました。
ある時、大勢の罪人たちがお白州に並んで、お裁きを受けていると、罪人たちのあたりで、「ブウゥーーーッ!」と、大きなおならの音がしました。「今の音は何の音だ?! めし取ってまいれ」と、上役人が…
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一乗寺の僧正は、大和の大峰山を二度踏破されたことのある高僧だった。 蛇を見る法を、行ったという。 また、龍の駒ほどの名馬を見るなど、おかしなありさまで修行をされた人であった。
僧正の宿坊は、坊の一二町も手前から賑わっていた。 田楽や猿楽などをする輩が集まり、 随身、衛府の役人たちの…
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これも今は昔。 一乗寺僧正、御室戸僧正という三井寺の門流に、 二人のやんごとない方がいらっしゃった。
御室戸の僧正は、大宰権帥・藤原隆家の第四子で、 一乗寺の僧正は、その子供の大納言・藤原経輔の第五子であった。
御室戸の僧正を隆明といい、一乗寺の僧正を、増誉といった。 二人とも…
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光源氏のモデルになった人物
紫式部の長編小説『源氏物語』の主人公、光源氏。美男子として描かれている光源氏は、もちろん、架空の人物ですが、その光源氏にはモデルとなった人物がいました。その人物とは「源融(みなもとのとおる)」です。
源融は822(弘仁13)年に、第52代・嵯峨天皇の皇子として生まれまし…
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むかしむかし、ある藩(はん)に、ご城代役(じょうだいやく)をつとめている侍がいました。 この人は大変、風流(ふうりゅう)を好む人です。 ある日の暮れ方のこと、近くの川原をぶらりぶらりと歩いていると、畑の中に何か黒い物が立っています。(はて? とうろうのようであるが)と、そばへいって見ると、古びてはいます…
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酒に酔った貧乏侍が、あっちへふらふら、こっちにふらふらと歩いていました。 それを子どもたちが見つけて、「やーい、酔っ払い。やーい、酔っ払い」と、からかいました。「なっ、なんだ? 酔っ払いが、どこにいるんだ? うん、おれの事か? おれは酔っているが、酔っぱらってはおらんぞ。 だいたい、おれの金で飲んで、おれが…
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さて、若主人は、 常々、自分を「親の子ではない」と陰口をたたいている連中を呼び、 この老侍の口から、本当は親とよく似ているのだと言わせてやろうと、 後見役を呼び出すと、「明後日、当屋敷へ大勢がやって来るというから、 しかるべく準備をして、もてなしに粗相の無いようにせよ」 と言うと、後見役はまた、「む」 と返…
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これも今は昔。 あるところに、父親と血のつながりがないと噂される若主人がいた。 世間ではその噂を聞くにつけ、親に似ない若主人を馬鹿にしていた。
さて、この若主人の父たる人が亡くなった後、 屋敷に奉公していた侍の一人が、妻とともに京都を出て、田舎へ帰っていたが、 妻が死んでからはどうすること…
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帝は大嶽丸を討った俊宗に様々な褒美を与え、盛大にお祝いしました。
しかし、俊宗は鈴鹿御前のことが気がかりで喜ぶ余裕もありません。祝宴もそこそこに、急いで鈴鹿山の屋敷に向かいました。
屋敷に到着して門をくぐったところ、人の泣く声が聞こえてきました。俊宗はもう気が気ではありません。
急いで部屋へ入ってみると…
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鬼の住み処、朱雀門
山背国(やましろのくに)の葛野郡(かどのぐん)と愛宕郡(おたぎぐん)にまたがる地に造営された平安京。桓武天皇は10年間住んだ長岡京を捨て、永遠の平和を願い、794(延歴13)年に都を平安京に遷しました。
平安京は東西4.5キロメートル、南北5.2キロの広さで、その中央には南北にわたる朱雀大…
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むかしむかし、あるところに、とても腕のいい狩人(かりゅうど)がいました。 狩人は毎日、犬をつれては山に入って、えものをとっていました。 ところが、ある日のこと。「おかしいな。きょうは、ちっともえものがおらん」 狩人はえものをもとめて、いつしか山奥に入りこんでいきました。 すると、日がくれてしまいました。…
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ある武士が、田舎道を歩いていました。「ああ、疲れたわい」 武士が一休みをしていると、ちょうどそこへウマを引いたお百姓が通りかかったので、武士はそのお百姓のウマに乗せてもらうことにしました。 しばらくいくと、武士はむしょうにお腹が痛くなって、「プウー、プウー」と、おならをしてしまいました。 そのおならのくさい…
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これも今は昔、 ある人のもとに、生半可な女房がいた。
人に紙をもらい、近在の若い僧侶に、「ひらがなの暦をくださいませ」 と言えば、若い僧は、「造作もない」 と言って、書いて渡した。
始めの方はうるわしく書いてあり、 神、仏によし、外出悪し、悪日慎め……と丁寧に記されていたが、 その…
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むかしむかし、和尚さんが六人の若者をつれて、山道を越えていきました。 ところがどこで道をまちがえたか、行っても行っても山は深くなるばかりで、とうとう日がくれてしまいました。「弱ったぞ。こんなところでは、野宿も出来ないし」 一行がなやんでいると、むこうにあかりが見えました。「しめた。あそこに行って泊めても…
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むかしむかし、あるところに、三太(さんた)という男がいました。 三太には近くの村へ嫁入りをしている、およしという妹がいます。 そのおよしが、とつぜん病気でなくなったのです。 さっそく嫁入り先にかけつけて、無事に葬式もすませました。「やさしい妹だったのに・・・」 その晩、およしのことを考えながら、村はずれ…
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長い間、山里から出たことがないおじいさんがいました。 ある日、おじいさんが家族に言いました。「生きているうちに、一度、京の見物をしたいもんじゃ」 すると、家族はお金を工面して、おじいさんを京都見物に出してやる事にしたのです。「いいかい、おじいさん。 京の町は、どれも家のつくりが似ていますからね。…
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陪従清仲の事
これも今は昔。 二条大宮は、白河院の姫宮で、鳥羽院の育ての母。 二条の北、堀川の東あたりにお住まいであった。
ある年、大宮がお住まいになる御所の一角が崩れていたので、 大蔵卿・源有賢(ありかた)が、 備後国司に再任用されたお礼として修理することとなり、 この修理が済む…
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むかし、なにわの町に、とても大きなお店がありました。 このお店のだんなは裸一貫からこの店を築き上げた、なにわの町では有名な人です。 さてこのだんな、けちでも有名でした。 なにしろ、おならを出すのも自分の舌を出すのも、もったいないと言うくらいです。 ある時だんなは、小僧さんをつれて用たしに出かけました。 しばらく…
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